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中断する物語(2005/2~2006/4)


旅のはじめに

なんのために言葉を紡ぐのか?もちろん自分のため。どこに向かうでもなく今、ここの空間を感じるために。日常から創造という高みを目指すのではなく、この場所から日常を見返す。生活はその都度打ち直される。
誰もが何かに向けて、あるいは誰かに向かって言葉を選んでいる。それがこの世界では対話と呼ばれている。しかしそれは結果から想定された閉ざされた言葉、既に死んだ言葉、それら疑似対話の言葉は、日々、権力を生み、暴力を行使する。
それとは違ったやりかたがあるはずだ。自意識の鏡に向かうのではない言葉のありかたが。
「試行」の名が指すとおり(開始当初のタイトル。現在は「中断する物語」に改訂)ここでのこころみは、ためしに、という思いが強い。いくつかの不備を感じながら、それを解消してからことを始めるのではなく、まずはじめて見ようと考えた。
何かを書くのではなく、書くことによって未来を探る。そう思えばすべての行いは、試行、なのだ。
自ら読む限り、未だ他人の影響、模倣を感じるこの言葉。だが、学ぶことは、真似ぶことでもあるならここからはじめるほかない。
ここからどこにいけるだろう?この旅の行程は常にのがれ、ずれ、違っていくはずだ。どこから?もちろん言葉からだ。(2005.2.26)



言葉は記号ではない

言葉は意味を表わす記号なのだろうか?
もし言葉が記号であるならそこから情報という概念が生まれるだろう。それを持つものが常に優越し、持たぬものは無知だとあしらわれるこの情報社会。だがまず情報があり、それを伝えるための言葉があるわけではない。まず、言葉がある。言葉が意味を伝える記号であるという前提がなければ、情報という概念も成立しないだろう。情報が意味を持つのは閉ざされた村社会の中だけだ。
もし言葉が意味を表わす記号なら、そこから枝分かれが始まりそれぞれの違った考え方が生まれるだろう。なんならその状況を自由と民主主義とでも呼んでみようか。だが、それが今や帝国が侵略に使うへ理屈に過ぎないことは周知の事実なのだ。
言葉は意味を表す記号ではない。人から人へ伝わるものは言葉の意味ではない。
考え方の違いを主張し、その寛容を説くのは、欺瞞に満ちた自己保身だ。
もっともな物言いの下に隠れた権力意識をかいくぐって、小さいものたちが小さいままに共に生きる新しい動きは、既にもうはじまっている。
ここで書き記される言葉に意味を見いだし、それに賛同するか、あるいはあげつらうか、はたまたわからないと匙を投げるか、なんにしろそんなことに意味はない。ここでの言葉は意味を伝えることを目指していない。問われるべきなのは、世界に向き合う姿勢、あるいは言葉という痕跡の先にあるはずの、一個人の"生きよう"(イキザマではない)なのだ。(2005.3.2)



Mさんのこと

Mさんのことを初めて知ったとき、まるで中上健次の小説の中から飛び出てきたようなひと、「千年の愉楽」や「奇蹟」で描かれる、高貴にして淀んだ血を受け継ぐ、中本の若衆のような人だと思った、というのは嘘で、Mさんにはじめて会った二十歳前後のころは、中上健次のことはよく知らなかったはずで、ということはMさんを中上健次の小説の登場人物に重ね合わせるというようなことは後になって思いついたこと、それもすでにMさんと音信不通になってからのこと、というのが実際のところのようだ。
Mさんとはたまたまバイトで一緒に働き、知り合うことになった。だが、そのバイトをはじめる以前から、こっちはMさんの存在を知っていた。これもたまたま友達に連れられていったライブハウスでMさんの歌う姿を見たことがあったからだ。
それからその頃住んでいたアパートがMさんの住んでいたアパートに近かったこともあって何度となく酒を飲んで話し込んだ覚えがある。もちろん何を話したかなど覚えていない。せいぜい思い出されるのは、意味を失ったことばの断片だけだ。
過ごした時間はわずかなものだった。Mさんは仕事場で揉め、数ヶ月で仕事をやめたはずだし、こっちはこっちでその頃、ロックだのポップスだのともかく、十代の頃からの周りのガラクタにほとほと嫌気がさし、周りの人間共々、すべてを投げ出して逃げ出す準備を始めていた頃だった。
確か、1992年の冬、MさんのバンドはマイナーレーベルからCDを発売し、横浜の7thアベニューというライブハウスでバンドのワンマンライブをやっているはずだ。私はライブに足を運んだが、まったく面白いと思えず、Mさんに声をかけることなく途中で店を出たのだった。
多分、その一年半程前には「Mさんは今、一番日本でカッコいいヴォーカリストだよ」と酒の席で、目の前の本人の苦笑を気にするでもなく、周りの連中を説き伏せていたはずだ。その思いは、彼の死を知った今でも変わらない。ただ、”一番カッコいい”、や、”ヴォーカリスト”に興味がなくなっただけだ。
ほとんど十年ぶりに彼の消息を知ったのはバンドのホームページの存在だった。私は、「Mさん、生きてたのか!」とメッセージを送り、ライブに足を運んだ。Mさんは消えかけた記憶を何とか辿るように私と一言、二言ことばをかわし、私はその様子を見て、Mさんが自分とは全く違う十年を過ごしたことに気づくのだが、そんなことは別にどうでもよかった。私はなぜかMさんがただ生きていてくれたことがうれしかった。そしてその日のステージでのMさんは相も変わらず”一番カッコいいヴォーカリスト”のままだった。
ライブの翌日、Mさんは私の携帯に連絡をくれた。だが、その後お互いに連絡をとりあうことはなかった。
結局、私は彼とは違う道を進んだ。私のMさんへのこだわりは過去の自分へのこだわりに過ぎないのだろう。
「タツ、早くおまえの”うた”を聞かせろよ」
Mさんはよく私にそう声をかけてくれた。ホームページを見る限り、彼の死は、苦しくもわたしがこのページであらたな旅のはじまりを書きつけた日と同じであったらしい。(2005.3.5)



過去を振り返ること

Mさんが死んでひと月が過ぎる。相変わらず、彼の死んだ状況や、そのときの心理状態など何もわからないままだ。そんなことは別にどうでもいい、と言っていえないことはない。だが、そう言い切った後に残る苦み、彼を探し続ける気持ちはやはり個人的な感傷に過ぎないのだろうか。
広く一般的にいえるのか、あるいは他の社会がどうなのかはわからないが、こと自分が所属するこの社会に限っていえば、二十代という年齢は不当な盲目を強いられるあわれな存在だと言える。滅び行くこの社会からの脱出を、その社会の側から要求されるという矛盾を課せられ、その脱出の名目のもと、やれ夢だの、幸せだの、自分のやりたいことをみつけろだのと乾いた心につけ込まれるような架空の餅を差し出され、さながら人参をぶら下げられた馬のごとく脇目もふらず走り続けることがよしとされるこのあわれな存在。なにかをやらなければならず、なにかをみつけなければならず、それを放棄するなら、すでに老化した廃人扱いを、とっくのむかしに棺桶に片足を突っ込んだ欲ボケ老人からされたりもする。
自らの口から無様に流れるよだれに気づかぬまま、永遠に食らいつくことのない人参をなんの疑いもなく追い続ける輩は論外としても、自分は馬でもなければ人参も好きではないといわんばかりに、自らを獲物を追う百獣の王になぞらえるような人もいるが、それはあまりにも馬鹿馬鹿しい問題のすり替えではないだろうか。
今、自分の二十代を振り返ると、まったくの間違い、完全な失敗だったと言いたくなる。だがその振り返る視点というのはやはり相対的なものに過ぎない。それは、今、失敗だったと思えるようなことが十年後には成功に思えるかもしれないではないか、というような堂々巡りを出るものではないだろう。結局、ここから眺める過去とは現在の投影にすぎないのだ。過去はもうどこにもない。だが、それでも振り返ることがまったくの無駄だとはいえず、それが必要であるとすら思えるときひとはどう振る舞えばよいのだろう。

     信仰を自分のことばと納得の間に正しく分配すること
     納得したことが、それを体験した瞬間に
     しゅっと終わらないようにすること
     納得が負わせる責任をことばに転嫁しないこと
     納得をことばによって盗ませないこと
     ことばと納得したことの一致はまだ決定的ではない。
     よい信仰でもそうだ。
     そんなことばが
     そんな納得をいつでも状況によって
     打ちこんだり刻みこんだりできるのだ。
                                                         (カフカ/夜の時間 高橋悠治)

認識を基盤にさらなる認識を積み重ねることに何の意味もない。認識は認識を忘れるために使われるときだけ認識の名に値する。ここでの認識をことばと言い換えることもできるだろう。
過去に得た認識や実感をまるでそれこそが現実であるかのごとく、後生大事に抱え込むことに一体何の意味があるのか。そんなことは懲りない知識人にまかせておけばよい。他のゴミ共の生が時代に寄生することで得られるものだとしても、彼の死は時代のせいではない。命をすり減らす生活の中からは生きるためのうたは聞こえてこなかった。
だが、それと同時に私は、彼の死はひとつの偶然に過ぎないと、彼から遠く離れた場所から思っている。彼はその死の直前まであくまでも生を模索していたはずだ。その生活の中から生まれた結果がたまたま死であったにすぎない。その生活に問題があり、その死が自ら手を下したものであったとしても、だ。
彼はもういない。だが私のなかでの彼との対話まだしばらく続くようだ。(2005.3.26)



ただ生きるだけ

昔、テレビで北野武の映画についての特集番組をみたことがある。それは映画「ソナチネ」の公開前後に放映されたはずのもので、「ソナチネ」の撮影風景、武やその他のスタッフへのインタビューなどで構成された番組だった。
もうすでにあやふやな記憶でしかないが、番組によれば、武は出演する役者に対して、簡単な指示をあたえるだけで、ほとんど注文をつけず、時には撮影をまったく見ていないことすらある。カメラは映画の撮影の傍ら、スタジオの端でパイプ椅子にすわり何かを考え込む武の姿を映す。もちろんその間も、現場の撮影は淡々と進んでいく。
その演出スタイルについての質問に対して、武は、映画なんてカメラマンが勝手に撮っちゃうから、というようなことを話す。あくまでも映画になるのはカメラを通した映像なわけで、撮影を眺める自分の視線、その先の絵は関係がないし、映画になる部分はわからない、と。
もちろん、現場での武が「映画」に対して全くの無頓着であるわけではなく、番組では時折、直接、カメラのレンズを覗き込み、構図を確かめる武の姿を映してもいた。
映画「ソナチネ」で武は監督だけでなく、役者として主演もこなす。今、思い出すと、紺のスラックス姿にサンダル履き、上は真っ白な開襟シャツ、ときにはその上にジャケットを羽織る武の姿が印象に残っている。それは映画「ソナチネ」からの直接の印象というより、その役者としての衣装のまま撮影現場を一歩引いた場所から眺め、うろつく武の姿だったのかもしれない。
番組の中で、さらに武は語る。映画は現場に入るまでの下準備で勝負は決まる。現場に入ってしまえば、後は「ただ、撮るだけ」、だと。
この言葉は一見すると、撮られるべき映画は既に武の頭の中で完成していて、現場に入った後は、その頭の中にある設計図どおりに機械的に作業を進めていけばよい、といっているようにも聞こえる。事実、「ソナチネ」以後の武は、どう複雑な設計図を構築しそれを完成させるかといった方向へ進んでいったように、映画を見る限りは思える。だが、少なくとも「ソナチネ」という映画、あるいは上記の演出の様子などを鑑みるときこの「ただ、撮るだけ」という言葉は違った風に考えられないだろうか。
もうひとつ、その番組を見た時の記憶。映画「ソナチネ」に使われた脚本は、ほんの数ページほどの薄っぺらなもので、中を開くと、そのシーンのナンバーと武の手によって箇条書きにされたいくつかの言葉が記されているだけだった。それはほとんど脚本というよりなにかのメモ書きでしかないように思えたし、それを手渡されたスタッフや役者は何のことかさっぱりわからないような代物でしかなかったのではないだろうか。そもそもそこには役者の台詞すら記されていない。そして武はそのメモ書きのような薄っぺらな脚本を片手に、サンダル履きのまま、軽い身振り手振りで役者やスタッフにイメージを伝えていく。そんなテレビの画面に映る武の姿を眺めるとき、この「ただ、撮るだけ」ということばの感覚がなんとなくわかるような気がする。
何かを考え込むのではなく、はたまた何も考えていないわけでもないというこの状態。常に身軽であり、現場での状況に敏捷に対応できる。下準備とは何かをするためにではなく、何もしないため、あるいは考えに捕われ視線を固定してしまわないために行われるものではないだろうか。 と、ここで唐突に自分が学生時代、サッカーをやっていたころの感覚を思い出す。今思えばなんと理性的に身体を動かそうとあがいていたことだろう。その頃は、程よく疲れた時ほど身体はよく動いた。今ではその理由が少しわかるような気がする。
ここで紡がれることばも「ただ、生きるだけ」のメモ書きのようなものであればいいと思っている。生きることに目的はない。理屈に押さえ込まれることなく、動いている身体に波長をあわせられるように。(2005.3.31)



桜の木の下から

去年はたとえそれを目にしてもそれほど気にかけることもなく過ごしていたことが、今年は嫌に目につく、というのは単に去年と仕事場が変わり、その移った先に異様に桜の木が多いというだけのこと。
これ見よがしに植え付けられ、さらにその意図通りに咲き乱れる桜の花を見ると、花にあたったところで仕方がないとはいえ、「アホか」と一言呟きたくもなる。
大陸と半島では反日感情が渦巻き、イラクの状況は相変わらずの最悪のもの。当事者と言えば桜の木の下で乱痴気騒ぎか。いや、桜の花がしばし、民族主義的なイメージの象徴につかわれることを考えれば、それこそ彼らなりの意思表明なのかもしれない。
この同じ桜の木の下で一体何ができるだろう。
平和的国際主義?
いや、こんな例え話は馬鹿げている。
ただ、となりの人間と話し、耳を澄ますこと。そして沈黙をも聴く。しかし、それをするには回りが少し騒がしすぎる。こんな桜の名所の目の前で働いているのが悪い。アホか。
(2005.4.9)



1+1は2にならない

個々の自由を尊重する、このもっともらしい言い草の裏に潜むからくり。それ以前にまず、それが他人に対する無関心、自分が何もしないための方便に使われるものでしかないことに気づかない鈍感さには虫酸が走る。
個人の自由を尊重し、それぞれが自らのエゴを追求することで組織は自然とバランスをとる、そんなことはありえない。そんなものは稚児の幻想であり、市場原理主義を支えるイデオロギーでしかない。
稚拙な思想の押し付けと他人を型にはめ自ら都合良く動かしたいとういう怠惰な欲望。ここには他人との協同作業が存在しない。当たり前だ、他人を見ていないのだから。現実を見ていないのだから。他人を見ず、現実を見ていないから自ずと状況の中での判断もできない。できるのは出来合いのマニュアルを当てはめることだけ。そこに暴力が発生することにも気づかないまま。
自由、平等、友愛、そのすべてがごく最近できた考え方に過ぎず、そのすべてが最終的に暴力に帰着することは二十世紀の歴史を見ての通りだ。
独裁、官僚化、権力の横暴。個人の自由を尊重することでそれらを乗り越えることはできない。むしろ組織は硬直化する、という以前にその個人の自由とやらが権力に依拠することで初めて口にできること。そんなものはちゃんちゃらおかしい、というものだ。
個人の技量をただ積み重ねるだけでは1+1=2でしかないが、もし他人との協同作業を考えるなら1+1は10にも100にもなる、というような言い方は未だ不十分なものだ。我々はむしろこう問うべきなのだ。そもそも個人とはなにか、それを規定する1とは何なのか?と。
一があるから多がある。規定となる1があるからそれを積み重ねるという発想が可能になる、あるいはそれぞれの1を尊重しましょうなどと口にできる。だがその1は絶対か?過去、現在、未来永劫存在する確固たるものなのか?それはむしろ、あるともいえず、ないともいえない、常に不確かなままとどまるほかないもの、ではないだろうか。1+1=2、これは絶対普遍の原理などではない。それこそ、退屈な制度であり、それにしがみつくことが権力を生む。
今、1ですらない存在として、この不確かさを生きる。そしてこの不確かさのなかにだけ真の自由があるのだ。

追記:自由は決して楽しく、快適なものではない。それを知るものだけが自由を口にする権利がある。自由は感性の快楽の問題ではなく、純粋に倫理の問題なのだ、というようなことをいっていたのは柄谷行人だったか? この、アホが!(2005.4.23)



どこにも行かない

気づくと、何かが上手くいっていないと感じ始め、理由もわからないまま苛々している。ともかくその不安定な状態を解消しようとあれやこれやに手をだし、あてずっぽうに何かやってみる。そしてそのあれやこれやがまったく効果が上がらないことに疲れ、惰眠を貪るような結果になる。ここでようやく、自分のなかに目的や目標がいつのまにか設定されていることに気づいた。結局、その些細な目標から、今の自分が遠く隔たっていることに苛立っていただけだった。
理想を追いかけようとする姿勢。それがどんなに些細なものであれ、結局、自分の欲望に動かされている状態、世界を自分の思うように動かそうとする思い上がり。これでは自由もクソもあったものではない。
何もせず、どこにもいかず、ただ目の前の広々とした空間を感じること。それを理屈で自らにいいきかせることと、実際にその自由を生きることはまったく別のことだ、というより教条を自らに課すというような姿勢とはまったく無関係でなければならないのだから、理屈や理論はまったく役に立たない。過去に上手くいったからといって、今度も同じやり方が役立つという保証もない。
常に、手探りで、不安定なまま....(2005.5.8)



バンド活動

楽器が比較的安価に手に入れられるようになって以来、誰もがバンドと称しての活動を行えるようになってすでに久しい。最近ではインターネットの普及によってそれらの活動情報を逐一発信できることが手伝って、端から見る限りは、そこそこ形になっているようにすら見える。今やプロとアマの垣根、どころの話しではないようだ。
誰もが少し工夫をすればコンサートや舞台のような、人が集まれるような催しを開けるという状況は決して悪いことではない。今の状況から新しい試み、今までとは違った人の集まり方というものが出てくる可能性は十分あり、実際、新しい試みはまだ目立たない場所で静かな熱気を帯びながら行われているはずだ。だが「バンド活動」とよばれるポップスの領域での動きは見るも無惨な状況であり、それはまるでこの滅び行く社会の縮図を見るようでもある。
舞台に上がる演者とそれを見守る観衆の関係。今は、まず音楽や舞踊がそこにありそれを目的に人が集まってくる。だが、もうすでにこれが間違いの始まりだ。舞台に上がることは(ものは)それほど崇高なことだろうか。結局、その崇高さとは排除の一形態ではないのか。崇高なものを神棚に崇めるのは単に共同体を活性化するための手段でしかない。崇められた方は、仲間はずれの腹いせに強権的に振る舞うかあるいは潔く死を選ぶか、どちらにしろ決して創造的ではない選択肢しか残されてはいない。そのことの構造的な改善がないなら今後も犠牲者は後を絶たないだろう。
もちろん色々な場合があるのだろうが、ライブハウスと呼ばれる穴蔵の中バンドが演奏を行う場合、さして集客力のないバンドがほとんどだから通常三、四つのバンドが一晩のステージに上がることになる。このときどんなバンドが出演するかはライブハウス側が決めること。バンドはライブハウス側から事前に何枚かのチケットを買わされているはずだ。出演料はもちろん出ない。
さて、この場合開催者は誰なのか? 主催者は誰なのか? 誰が責任を持って人を集めるのか? その日の会が失敗に終わった場合誰が責任を取るのか? ライブハウスにとって客とは見に来る人なのか? あるいは金を出してまで舞台に上がりたがるバンドなのか? 共演するバンドとの関係は? 敵? 味方? 競争相手? そもそもこんな形態で月に二度も三度も演奏する意味はどこにあるのか?
結局、すべてが曖昧なままただ日々のルーティーンワークをこなしている。このような歪なコンサートの形態もバブルの産物なのかもしれない。社会の反逆者を気取って、その実自分がいつまでも既存の経済システムにしがみついるだけであることに気づかない愚者の群れ。
所詮はアマチュアの活動。だがプロと称する連中だってもうもたないはずのこの経済システムの外には出られない。そんな連中を真似たり手本にする必要などどこにもない。
口先だけの慰めは他人への愛の証とはならないだろう。
いつまでもおまえのことだけ考えているわけにはいかない、というような意味のことをこの前見たある追悼ライブのステージで鬼頭径五は言っていた。
誰かもどこかに書いていたっけ。死者は我々から一方的に別れていく、我々も死者と上手く別れられますように、と。(2005.5.28)



今の生活

起床は朝の四時半。仕事は五時半からで仕事場まではバイクで五分とかからないわけだから、ぎりぎりまで寝ていればもう少し遅い起床でもいいはずで、実際以前はほとんど起き抜けの状態で家を出ていたのだが、最近は三十代半ばという年齢のせいか起きてすぐに目が覚めず、身体が動かないので少し早めに目覚ましをかけている。とはいっても目覚ましが鳴ったあともぐずぐずと寝床のなかでまどろみ、結局動きだすのは五時を過ぎてからだが。
だいたい夕方の四時には着替えて仕事場を後にする。最近、ようやくこの仕事場で過ごす時間が長過ぎると思うようになってきた。それはこの仕事以外に少しやれると思うことが出てきたからなのだが(その一つがこのweblogでもある)今はなんとかやりくりしなければならない状態だ。 今のようなタイムスケジュールに縛られるようになって約一年が過ぎる。この生活を続けている理由は経済的な問題につきる。それまでの怠惰な生活のツケですっかり借金漬けになってしまい、色々問題を感じながらも今の生活を続けている。と、いうのが表向きの理由ではあるのだが、実際のところはそれまでの生活が行き詰まりやることがなくなって、なにもやることがないなら借金でも返すか、というのが本当のところなのかもしれない。なにはともあれ、その自らの怠惰の証もあと半年も今のまま働き、あるいは働いていられたなら少しは区切りがつきそうだ。そのときは少し考えるべき時期になるのかもしれない。
仕事は弁当を作りそれを車で配達する、ただそれだけのこと。朝が早いのも昼までに間に合わせなければならない二千五百ほどの弁当の製造に関わっているから。その製造が一段落つく頃配達に出かけ、午後は容器の回収。それから回収された容器の洗浄作業があるが、こっちは朝が早い分その仕事には関わらず、そのまま仕事場を離れる。後は、本を読み、ものを書き、コンピュータを眺め、日々の細々した雑務をこなして一日が終わる。それが今の生活。
これが生活といえるか、という疑問は常に頭から離れない。いつだって退屈な日常の中に埋没してしまう自分に苛々しない日はない。つねに日常の時間軸に引き戻されてしまうこの仕事をしていればそれはなおさらでもある。かといって、強引に生活を変えるというような、二十代の時さんざんやりつくした方法でこの日常から抜け出せるとももう思えない。ともかく今は限られた人と時間のなかでやれることをやるしかない。もちろんそれにも限界がある。だめなら死ぬだけだ。それも今まで「生活」を創造できなかった自分の責任以外のなにものでもないのだから。
今、何してる、と問われれば、弁当屋、と答える。別に弁当屋がこうして言葉を綴って悪いといういわれはないだろう。blogの普及でだらしなく垂れ流される、日常に埋没した言葉の群れが、醜悪以外のなにものでもないとしても。(2005.5.28)



日常と生活

小説家の村上龍は、以前何度となく「(自分にとって)書くことは非日常的な行為である」というようなことを書いていたように思う。最近はまったく村上龍の文章を読んでいないのでよくわからないが(以前は「ベスト」という雑誌の彼のエッセイをよくコンビニで立ち読みしていたが、この「ベスト」は成人雑誌で、近頃は成人雑誌に立ち読み予防のテープが張ってあるので読めなくなった。最近のコンビニの立ち読みの定番は「週刊新潮」に載っている批評家の福田和也氏の連載だが、村上氏のときほど熱心に読んではいない)今でも訊かれれば同じようなことをいうのだろうとは思う。村上は、書くことが日常になったら終わりだし、書く意味もないというようなことも言う。それはまったくその通りだとは思うが、結局彼の言うところ(書くところ)では、書くときには決して日常では発揮することのない超人的なエネルギーを費やしているのだ、というような凡庸な考えから先に進むことはない。
日常と非日常。日常があるから非日常がある。逆にこの退屈で暴力的な日常がなくなれば非日常も存在理由を無くすだろう。ここで言われる非日常は十分日常に依拠している。
この非日常の側からいくら日常を非難してもこの両極を含むシステムはまったく変わらない、というだけでなく、その非難を糧にさらに延命することすらあるだろう。
この構図を指摘するのはたやすい。だが実際そこから出るのは決してやさしいことではないようだ。
イチ小説家の非日常的行為というような話しであるなら別にほっておけばそれで済む。だが、以前、革命という非日常的行為があった。そして革命で社会が良くなることはなかった。結局、目の前の生活に足下をすくわれる。そんな時代の後に今がある。ネオコンとそれに擦り寄る犬どもの跋扈する世の中が。
書くことが日常になるようでは意味がない、というのは生活の中に書くことがなければ意味がないということでなければならない。
それは別に書くことで生計を立てているか否かに関係しないだろう。
では、生活の中に書くことがあるとはどうことなのか?
そんなことを考えながらまた「物語」を書き始めようと思っている。
日常を見つめ、距離を測るそんな場所から、再び生活を始められるだろうか?(2005.6.11)



死者の季節

憲法九条と日米安保、そのどちらが欠けても今の社会は成り立たないという曖昧な現状。
平和と戦争。平和に固執するから戦争が起きるのか、戦争があるから平和を唱えられるのか、どちらにしろこの両極に別れる矛盾を、これほど矛盾と意識することなくやり過ごせる国は他にないだろう。
ブッシュは自由を選ぶかテロを選ぶか決めろと迫った。だがこれは二者を容易に区別し、選択できないシステムを利用する限りにおいて功名に機能する提言だった。二者択一を明確に色分けできないことなど権力の側が一番よく知っている。その曖昧さにつけ込み帝国は強奪、殺戮、虐待をつづけ私腹を肥やしていく。帝国の看板を自由と強引に言いくるめながら。
自衛隊は軍隊ではなく、武力行使でなく人道支援あり、侵略ではなく解放である。帝国の飼い犬が日々子供じみたすり替えを列挙するのもそれはそれで理にかなったことなのかもしれない。だが、もしこの国の犬どもに他の権力者と違う部分があるとするなら、そこに「悪」への意識の薄さをあげられるかもしれない。もちろんそのことが別に罪を軽くすることに寄与するわけではない。それどころかこの「悪」への意識の薄さは、他人の神経を却って逆撫でするだけだ。
口では反省をいいながら今日もまた堂々と戦争好きの神に手をあわせる。殺戮行為の最高責任者の罪は免罪されたままに。
結局、終戦などなにほどのものでもなかった。戦争が終わった、それで一体何が変わったというのか? 世界は今日も戦争をつづけていく。
考え方の違い、見解の相違、そんなもっともらしい言い草が容易に通用することを疑わないなら何も始まりはしない。考え方の違い、というたかだかひとつの考え方。それこそがこの社会のイデオロギーだ。そしてそのイデオロギーを担保しているのは、記号化された文字なのかもしれない。今のご時世、御丁寧にテレビの映像に字幕までついてくるのだ。すべての現実を記号で回収しようという無意識の権力。コンピューターを開けばそこでも無数の文字が蠢いている。どこを見たって記号だらけ。やはり書かれたことばなど悪以外の何者でもないのか。
醜悪な匂いを漂わせ、奇怪な面持ちを浮かべながらいつまでも欲に突き動かされている病的集団。彼らの想像力が、遺骸はもちろん、墓碑もなく名前も忘れられたままの、アジアの多くの民衆達に想い至るときは来るのだろうか。
もちろんそれは他人事ではなく、自分の課題でもある。
また、夏が来る。夏は死者の季節だ。(2005.6.26)



乾からびた場所から

マドリードのでの爆発はもちろんのこと、アメリカの9.11すらさしたる驚きではなかったはずだ。暗い時代の始まりを告げる事件ではあった。それを実感して気が重くなるだけ、驚きなどあるはずもなく。今回はロンドン。次はイタリアかオーストラリアか。もちろん明日、東京で爆発があったところでなんの不思議もない。
もし一連の爆発、殺傷事件を中東に関係する集団が引き起こしたものであると主張するなら、イラクから軍隊を撤退させるべきだろう(もちろんパレスチナの問題もある)。とってつけたような警備の強化、管理、監視システムの整備、それこそまさに無責任を絵に描いたような行いだ。 その無責任男が他人の自己責任を問うこの国の滑稽さ。結局、自分の非を認めず他人に責任を転嫁しているだけのこと。間違いなくこの国は死んだ国だ。無責任が無責任を呼び、結局それが暴力につながり、世界は泥沼から抜け出せない。
責任とはなんだろう? 自己責任、親の責任など、この国ではすっかり無責任を隠蔽するために使われることばになってしまった。やはりすべては天皇を免罪させるために「一億総懺悔」を唱えたことから始まっているのか。
責任とは認識すること、確かにその通りではある。だが、それがいかに困難なことか。その困難さに向き合うことで、結局誰も責任などとれないという結論で立ち止まってしまう恐れすらある。深く考えること、たいそれた理想を掲げることは、逆に無責任さにつながる場合もある。
結局、まずは今、この場所でやれることをやるしかない、というありふれたことばに戻って来るほかない。
世界はますます悪くなる。それでも、濁り、腐り果て、崩れ落ちていく帝国の隙間、水は枯れ、すべてが廃墟と化した荒れ地の中でも、小さな植物は静かに芽吹いていくだろう。
(2005.7.10)



Sさんへの手紙

Sさん、元気ですか。もうずいぶんのご無沙汰です。最後に会ったのはいつのことやらオレはもうまったく覚えがないけど、Sさんも覚えてないでしょ?、オレの最後の記憶は、確かSさんがオレの家に電話をくれて(まあ、いつものごとく飲みにいくぞ、てな電話だったんだろうけど)あいにく、そのときオレは家にいなくて、後からSさんから電話があったことを聞いて.....というのがSさんとの最後のやりとりの記憶。結局、それを最後にお互い音信不通になったんじゃないかな。でもそれはオレのせいじゃないよ。なにせそのときのSさんは回りの誰にも自分の連絡先を教えていなくて、もちろんオレも知らなかったからこっちからは連絡のしようがなかった。だから、こんなに長い時間、お互い音信不通になってしまったのは一方的にSさんが悪い(笑)
オレも今やそれこそ、あの頃のSさんと同じくらいの歳になっちゃった、というより、Sさん、あなた誰が聞いても自分の年齢を言わなかったよね。少なくともオレはSさんの歳を今でも知らないよ。でもその当時はオレも含めてまったく誰もそんな些細なことは気にしていなかった。年齢にしろ連絡先にしろそんなものは会社に聞けばわかることだったはずだけど、オレはそんなことしようなんて思いつきもしなかったし他の連中も誰もそんなことしなかったんじゃないかな。
Sさんはとにかくわけのわからない人だったけど、オレを含めたまわりの連中はそのSさんのわけのわからなさを、わけのわからないまま慕い、信頼していた。まあ、そもそもあの頃は誰もかれも、わけのわからん連中ばっかりだったからねえ。今思えば、Sさんの方がオレ達のわけのわからなさに付き合ってくれていたのかもしれない、なんてそんなことを考えます。Sさん、少しはオレも大人になったでしょ?
そういえば、もう五、六年前だけど、いるはずもなく会えるはずもないと知りつつも、なんとなくSさんのことを考えながらたまプラーザの駅を降りて、ぶらぶらとその周辺を歩き回ったことがあるんだ。ほら、Sさんがたまプラーザに住んでたってことだけは知ってたからさ。なんでそんなことしたんだろうな? まあ、たぶん単に暇だったんだと思うよ。しかしそのとき改めて思ったけど、たまプラーザなんぞという街はまったくもってSさんには似合わない街だったね。そのまったく似つかわしい街に、建設現場の日雇い労働者という分際で、一軒家に住んでいたというんだから、う~んやっぱりわけがわかんないよ。
Mさんが死んだというのは以前に書いた通りです。Sさんは忘れてるかもしれないけどオレにSさんを引き合わせてくれたのはMさんなんだよ。もちろんそれまでにオレは何度かSさんと顔をあわせてはいたけど、ほとんど喋ったこともなくて、Sさんのほうはオレのことを、なんだこのクソ生意気そうなガキはといった冷めた視線で眺めていただけだった。その間に入ってオレとSさんを引き合わせてくれたのがMさんだった。その日は確かOさんもいて四人で酒を飲んだんだ。でも、Sさん途中で酔いつぶれちゃって、オレとMさんはSさんをOさんに預けたまま、走って逃げちゃったっていう.....それがオレがSさんと初めてまともに話しをした夜だった。Sさん、もう覚えてない? 
この暴力的な社会にただ苛立つしか術を持たなかった二十歳そこそこのオレに、Sさんはある日突然、なんの脈略もなく「なんだ、おまえ、小説でも書くのか」と言った。まあ、単にオレが理屈ぽいからSさんはあてずっぽうにいっただけなんだろうけど、オレはそのあてずっぽうさ加減が何故かうれしくて、今でもSさんのそのひとことをよく覚えているんだ。
でも、残念ながらそのSさんのあてずっぽうのカンははずれでした。
今、現在、小説のことばはすべて死に絶えている。そしてこれ以上小説が書かれなければならない必然などもうどこにもない。今、必要とされているのは、新しいことば、というよりことばの違った使い方だとオレは思う。今、オレが興味を持っているのは「物語」なんだ。
なんかつらつらと思い出話しばっかり続いちゃいそうだ。中途半端だけど今回はこの辺で終わりにするよ。まあ、オレは変わらず元気です、ということをSさんに伝えたかっただけなんだ。
なんだか足早な文章になっちゃて、碌に自分の近況報告にもなってないけど、まあ、暇つぶしがてら読んでくれたら幸いです。 Sさんも身体に気をつけて。では、またどこかで....
(2005.8.1)



まっとうに死ぬのは難しい

母親が癌で入院し、その死までの経過を身近でただ眺めるしかなかったとき、この社会で死ぬことの難しさを思う。
死への国家の介入。死に向き合わないために国家という保証、国家という暴力にすがる人達。その結果は、ただ惨めに死んでいくだけ。もちろんその死の惨めさを、惨めであると感じないために人は国家にすがる。
こっちはこっちで、惨めで結構、だが国家に保証されるような死に方は御免だと思っているから、もともと折り合いのつきようがない。まあ、お互い勝手にやるほかない、というものだ。
だが国家はけっしてほっといてくれなどしない。むしろ死を恐れているのは国家の側なのだ。なぜそれほどまでに死を恐れるのか?
その死に意味を付与しなければいられない小心さ。だが有意味な死などどこにもない。死はすべて無意味なものだ。生きることになんの目的もないように。死を恐れるのは、生きることに背を向けることと同じこと。まっとうに死ぬことはまっとうに生きることでもある。
救われたくない、ここが自由の重要なポイントだ。
他人を救いたいなどといい募る連中のうさん臭さ。もちろん助けてくれるのは大歓迎、だがそれが本当に他人の助けになっていると言えるのか?  この手の連中は善意から発して行動しているわけで、それを無碍にしたときのヒステリックな反応ほど手に負えないものはない。
生きることの無根拠さは善意で塞げるほど甘いものではない。
とにかく、あんたの助けなど断固拒否する、と宣言したところでどうにもならないほど、この他人を拘束するシステムはうなりを上げてドライブし続けている。どこまで欲望すれば気が済むのか。世界は誰のものでもなく、他人をおもうとおりに動かすことなど誰にもできない。
哲学者柄谷行人が指摘する通り、この社会は子は親に拘束されているというより、むしろ親が子に拘束されている。例の親の責任というやつだ。もちろんそのことでさらに子供もこの社会に拘束されていく。
去年の春、イラクで三人の日本人が何者かに拉致、監禁される事件があった。そのときはテレビもなく新聞もとっていなかったし、PCも持っていなかったから、この事件のことはよく知らなかった。ただ、そこから漏れ、聞こえてくる自己責任だなんだといった戯言のかけらを目にする度に、あいもかわらぬこの社会の陰湿さを思いうんざりするだけだった。
後から聞けば、このとき人質になった家族へのバッシングも醜悪を極めたものであったらしい。自己責任をいうなら、まず親と子供はまったく関係ないのではないだろうか。
元日本兵が戦時下において自ら行った残虐行為を語るというドキュメンタリー映画を見た。そこでも同じ構図の反復を見る。あの状況で人を殺さない、女を強姦しないなどできない。そんなことをすれば(しなければ)戦場では馬鹿にされるだけ、仲間はずれになる等々。あるいは上官の命令には歯向かえない、兵士として一人前にならなければ親に申し訳がたたない、だから人を殺した、など。他人の自主性のなさをなじるのに、オマエは人にいわれたら人殺しでもするのかなどと下衆に指摘するいいかたがあったが、冗談ではすまなかったということか。赤信号みんなで渡れば....どころの話しではなかった。
別に残虐行為が行われていないからといって、この社会の陰湿さが消滅したわけではない。今をもってこの社会は何も変わってはいないのだ。あるいは自らの手を汚さないというだけで、イラクでのアメリカの残虐行為を黙認しているわけだから、悪の意識もないまま悪に加担するという意味ではさらにたちが悪いのかもしれない。
この村の掟に背いて生きること、
まっとうに死ぬのは難しい。(2005.8.14)



怠惰な姿勢

ソファーに足を投げ出しゴロリ。手元には手頃な高さのテーブル、そしてその上にテレビのリモコンと番組表、暇つぶしに食べるスナック菓子にお好みの飲み物を注いだグラス、喫煙者なら煙草と灰皿も忘れずに。そんな怠惰な姿勢のまま一日を過ごす。動かすのは手だけ。まわりに配置されたそれら諸々のものに手を伸ばすときだけだ。
そんな怠惰な姿勢に慣れた連中は、自分が動くことがすっかり面倒になり、その挙げ句、あろうことかまわりの者を動かそうと、あれこれ指図をし始める。それも飲み物がなくなっただの、煙草が切れただのといったくだらない用事のために。
これが実際のことなら黙って蹴りの一つもいれてやればことたりるが、それが、現実を見て考える姿勢になってしまっているとしたらどうだろう。 自分の身体を動かすことを忘れ、文字通り小手先の動きだけですべて間に合わせようとする見苦しい姿。その小手先の動きすら、変化を拒むためのパフォーマンス、自分は十分働いていますと、当の自分自身を言いくるめるためのものでしかないとしたら。
権力の萌芽は日常のあらゆるところにある。
それぞれ、思い思いの領域を持ち、それぞれの場所で、それはそれは真摯、真面目にことに打ち込んでいるのだろう。音楽、演劇、美術に小説、さらには旅行に美食、彼、彼女らとの確かな生活。その間、目の前の現実は放って置かれるだけ。さもこの現実は、良かれ悪しかれ、未来永劫変わることがないといわんばかりに。
こちらが少しでもそれらの領域に踏み込もうものなら、ほとんどヒステリーに近い反応を示す、というのもまったくあきれるほかない。こうなるとほとんど、それぞれの聖域、一種の宗教だな。仕事とプライベートは分けましょうだって? アホくさ、オマエは芸能人か。
それぞれがそれぞれの殻に閉じこもる自閉集団。永いこと温室のなかで育ったおぼっちゃん、おじょうちゃんに、いまさら現実の中で生きよというのも酷な相談なのかもしれない。
現実の中で生きていけないからといって黙って死んでくれるはずもなく、さらにたちの悪いのはこれらの連中が、自分では機敏に運動を繰り返し、十分働いていると思っているところで、もちろん部屋に寝転んで、リモコン片手にテレビを見ながら煙草を吸ってる人を見て、誰も勤勉に働いているとは思わないように、あくまでもそれは自己満足の領域を出ることはなく、他人を納得させることはなど到底できはしない。せいぜいその手のパフォーマンスが通用するのは利害の一致した同じ領域内の仲間、それだって相手が見ているのはこちらを鏡にした、それに写った自分の姿なのだから、正確にいえばそれは仲間褒めですらない、というより本来仲間褒めとはそういうものなのかもしれないが。
そのナルシズムの極地ともいえる現代のなかで、小泉純一郎という人に支持が集まるというのもそれはそれで理に適ったことなのかもしれない。 ポチ小泉の政権が維持されるということはこの国は戦前と同じように、アメリカとの関係に多少の違いはあれども、孤立への道を選ぶということになるのだろう。かといってあの手の怠惰なナルシストを中心に添えることなしに、さらにこの怠惰な連中が巣食う社会は機能しないのではないのか、という思いもある。もちろん国が滅びて山河あり、破滅を回避するいわれはどこにもない。どう考えても茶番としか思えない選挙劇、それぞれの立場からポチ以外の勢力に一票、あとは個別に世界のために働く、というのがせいぜいの落としどころなのだろうか?
結局、部屋でゴロゴロしているような連中をいくら批判したところで何も変わらない。それ自体、自分の運動が行き詰まったことの現れなのかもしれない。放置された現実は日々変化を続けている。それがいくら悪い方向に進んでいるからといって、それらに向き合うことなしに、生きることは存在しないのだ。(2005.8.27)



夏の終わりの覚え書き

「外」は外にはない。この日常の内側にある。あるいはこの亀裂を閉じた時点で生活は退屈な日常になる、とでもいおうか。
日常の中から、そこからの脱出を唱えることに意味はない。脱出先として想定された「外」はすべて観念の内にとどまる他ない。それはこの日常に考えさせられている状態。今、ここを離れて生活は存在しない。
この社会の無意味さ。その無意味さとはできるだけ関わらなというのが懸命な態度だ。だが自分の今の情けない状況の中ではそれは叶わぬ願いというもの。では、どうすればいいのか。
遠ざけようと思うことで却って捕らわれるということがある。まず、その無意味さが目の前にあると認めること。かといってその無意味さに埋没してしまっては意味がない。適度に距離を取ること、それが大切だ。だが、この状態はミイラ取りがミイラになる危険性と常に背中合わせにあることも忘れないこと。
どうもこの滅び行く社会に親切にし過ぎたと思うことがこの頃よくある。もちろんそれは状況に強いられることでもあった、とは思うが、これ以上この社会に対し執着することは単に自分の弱さでしかないだろう。やはり無意味なものは無意味だ。そこに多少なりとも関わらなければいけないのは自分の責任だとしても、この社会が崩壊することにいったい何の責任があるだろう。それは「彼ら」が選んだ道だ。変化を続ける現実から逃避し、おのおのの殻に閉じこもった人々に何を言っても無駄というもので、そうなったら見限るほかない。もちろん現実に向き合う中でまた彼ら、彼女らとどこかで出会うこともあるのかもしれないが。
ものを書くこと。それだって、今、この場所から書かないのなら何の意味もない。最近の自分の書いたものをぱらぱらと読み返すと、少なからずここではないどこかをイメージしてことばを綴っているように思える。
もちろん、今、この場所から書くということはもうこの何年もの課題であるし頭ではわかっているつもりのことでもあった。だがそれを実践するのはなかなか難しい。あるいは自分の書いたものを頼りに生活の軌道修正を試みるか? だが自分のことばを読み返すことはあまりないし、たんねんに読み返すことに意味があるとはやはり思えない。
 今、この状況のなさけなさを見ないことは現実逃避でしかない。だが、単調な日常をつらつらと恥知らずに書き連ねること(ネットに溢れる夥しい数のことばはほとんどこれだ)は、今この場所から書く、ということとは何の関係もない。
書くことなど別にたいしたことではなかった。少なくとも自分の中では弁当を運ぶこととそれほど変わりはない、というのは少し言い過ぎかもしれないが、もし自分の書いたことばが多少とも金になるという状況だったならあながち言い過ぎでもないかもしれない。 ともかく、書くことは特別なことではないし、別にそれでいいという気がする。そもそも人が生きることなどそれほど大騒ぎすることでもないのだから。(2005.9.9)



覚え書き2 ~秋のはじめに~

この前テレビを見ていると、ある野球選手がインタビュアーとの話しのなかで、球をよく見ようとしすぎてかえって打てなくなった、球を目で見るのでなく、身体で見ればよい、というようなことを言っていた。これは別にスポーツ競技に限った姿勢ではなく、世界を見る姿勢にも共通することだ。例えば高橋悠治の次のようなことば。

『画家がカンバスから身を退きながら全体の構図を見ようとしたり 競技者が目の焦点をやわらげるいわゆるソフトフォーカスによって あらゆる方向から来る攻撃にそなえるように 特定のものを見るのではなく 視野全体に気を配ること できるだけたくさん見ようとすることは 目が内側に向いている時と変わらない』(高橋悠治/「声・文字・音」)

ひとつのものを見ようとすれば、他の物事が目に入らなくなるという光景は生活のなかでよく見かける事柄だ。結局これはなにものも見えてはいないという点で、以前少し書いた、怠惰な姿勢、と表裏一体の関係であるといえるだろう。
一歩、身を引いて世界を眺めること。そこでは見るという意思は邪魔なものでしかない。見ようとすれば一瞬のうちに身体のバランスはくずれて、世界の窓は閉ざされる。いや、世界の中に自分があり、同時に世界を眺めてもいるという状態から離れて、世界は窓から眺める外部になるといおうか。だがそこから見える世界は、既に現実から遊離した手前勝手な架空の王国に過ぎない。
常に意思という力を抜いて、あらゆる事柄に対応できる身軽さを保つこと。だがこれがなかなかできない。(話しは逸れるが、つい数ヶ月前、新宿で画家の富山妙子さんの作品展覧会があって、その会場でたまたま高橋悠治さんが話している様子を眺める機会があった。あらゆる前提を排除して、そのすべてが今、そこで初めて提起されるとでもいったような柔らかな姿勢はとても印象的で、こちらから眺める限りそれはまったく無防備なものにすら感じられた)
時代はますます凝り固まっていく。それは意思、欲望、権力が絡み合った結果。その力はますます世界を悪い方へと導くものでしかない。今、必要なのは、何もしないこと、複雑に絡み合った足場を外していくこと、ものごとのひとつ、ひとつをときほぐしていくこと。それには敏捷な動きが必要だ。動かなければ状況はますます凝り固まっていく。動くために、力を抜き、そのために何もしないという逆説。
何もしない、というのは少し言い過ぎかもしれない。世界がこのままでいいとは思ってはいないが、かといって声高に変革を唱える気も毛頭ない。が、弾圧されれば抵抗するほかない。日々、抑圧を感じるこの時代に何もしない、などと聞けば、なんと悠長なことかと言いたくもなる。この状況をどう考えるか?
一般的な答えがあるとは思えない。個別の生活の中でやるべきことは違う。反戦、非暴力、平和主義、それらをとりたてて声高に唱えることに特別な意味があるわけではない。日本では運動が少なすぎる、というような声もきくが、それだって運動に某かの一般的な意味があるから、やりたがる、あるいはやりたがらないということで、今が運動が下火な時代だとしても、それは運動がはやりだった時代と何も変わっていないということでしかない。大事なのはそれらの行動から特別な意味を剥ぎ取ることだろう。もっともらしい運動だって、生活の中のいち行為に過ぎない。そのことを見ないからいつまでも権力の側と似た構図を反復して自滅するというお決まりのパターンから抜け出せない。戦わないこと、だって自由を確保するための重要な戦術となりうるのだ。一般的な大義名分のもと、何かしなければならないなどと考えればことの本質を見失うだけだ。何もしない、とは意志的に他人や世界、あるいは自分の身体をも動かすことなどできない、ということ。別に、時代のシニシズムに同調するつもりはまったくないのだ。
と、いうようなことが、ここ数年、音楽家高橋悠治のことばをなぞりながら考えたことだった。
そしてもう一度現実に戻り、今の自分の状況を振り返ってみて、この生活の中でやれることがほとんど残されていないことに気づく。別に目的や目標があってそれを嘆いている、というわけではない。だがこのままでは抑圧に押しつぶされるのは時間の問題だ。かといって特別な方策が空から降ってくるわけもなく、今までと同じようにただ生活のなかで細々と個人的な抵抗運動を続けることしかできない。
この夏はそんな現実を突きつけられ、確認させられるだけの最悪の夏ではあった。
(2005.9.24)



中断する物語

(今、書いている最中の物語の冒頭部分)
そのとき、男にとりたてて目新しい思いつきがあったわけではない。
男はただ今までと同じように、何の考えもないままふらふらと住み慣れた場所を離れこの街にやって来ただけ。あてもなく、目的もないまま、バックに詰め込めるだけの荷物を担いで、女の部屋に転がり込んだだけだった。移った先がこの場所、この街であったことすらちょっとした偶然に過ぎず、仮に付き合った女が別の場所に住んでいたなら男がこの街に来ることもなかったはずだ。
これでいくつ目の街だろう? そんな思いがときおり男の頭を掠めることもある。だが、その度、問いは答えに辿り着くことなく、思いは静かに消えていく。消えたことにすら気づかないほど静かに。
男がどこから来たのか今はまだ誰も知らない。
男がこの街に来て二週間が過ぎる。男は未だに食いぶちをみつけるでもなく、ただ毎日ふらふらと過ごし、無為な時間をやり過ごしていた。女が仕事に出た後、男は気ままな時間に目を覚ます。誰も見知った顔のいないこの街では、時間をつぶすことすらままならず、そんなとき、男はあてのないまま、ただぶらぶらと街を歩く。別に着飾って出かけるわけでもなく、履き古したジーパンにサンダルを突っかけただけという格好で、気が向いたなら当てずっぽうに電車を乗り継ぎさえして、自分が今どこにいるのかもわからないまま、見馴れぬ街をうろつき廻る。部屋に戻れば、仕事から戻った女を相手に、その日歩いた街の様子をああでもない、こうでもないと話し、それで一日が過ぎていく。端から見る限り、呑気で怠惰な生活。そんな生活の中で男はつぎなる道を探っている。自分では、そうと意識することのないまま。
そんな生活をひと月程続けた後、男は誰に促された訳でもなくようやく働きに出かける。ふらりとこの街にやってきたのと同じように、またふらりと部屋を出て働きに出かける、まさにそんな感じのままで。
男のその派手な風貌はどこにいっても人目を惹いた。百八十を超える背丈に細身だが骨格のしっかりとした身体、そこから延びる長い手足は、自身そう意識せずともつねに独自の柔らかな軌跡を描いた。少しこけた頬は鋭い光を放つ大きな眼孔を際立たせ、栗色の髪はいっそう男の容貌にキナ臭さを臭わせもする。その一見派手に装ったように見える栗色の髪も別に染めたわけではなく、生まれついてのものだった。その上強いくせ毛で、下手に髪を短くすると却ってまとまりがつかず、自然、おさまりがつく長さとなると、耳はかくれ、後ろ髪は少し肩に触れるかといったところに落ち着くことになる。並の男がやれば単に汚らしいだけか、あるいはガキのつまらない自己主張にしか映らないはずの髪型も男がやれば不思議と似合い、おさまりがつく。昔から髪を外に切りに行っても、そのくせ毛のせいでまともに見れる髪型にされた試しがなく、最近はもっぱら自分でザクザクと鋏を入れるか、女にあれこれ注文を出し切ってもらうかのどちらかで、男はもう何年も金を出して髪を切るということをしたことがない。もともと無精な男はそれで十分だと思っていたし、肩口まで無造作にのびたその髪は、男の鋭い目つきと相俟って、さながらライオンのたてがみのようでもあり、男によく似合ってもいた。
その髪の下では、いつも伏し目がちでどこか照れたような、それでいて眼光鋭い大きな目がたえずぎろぎろと動いていた。人は男の伏し目がちな視線が突然自らに向くとき、いきなり射抜かれ、突き放されるような気になり思わず目を逸らしもしたし、またその男の眼が放つ強い光にひき寄せられるような気にもなった。それでいて一度、表情が崩れれば男は何の屈託も感じさせない、まるで無防備な笑みを浮かべ、男が生まれ、育ち、今まで過ごしてきた西方の訛りの混じった言葉で冗談をまくしたてる。そこで人は、どこか拍子抜けするような気にもさせられたし、またその気のいい性格が男の魅力をさらに引き立てていることに気づきもする。どこにいても人を惹きつけずにはいない男だった。そしてそのことに男は少しずつ苛立を感じ始めてもいたのだった。(2005.10.9)



今、やっていること

ようやく過ごしやすい季節になった。
夏は嫌いではないが、ここ数年の暑さはなにかやりきれない思いが拭えない。単に気温が高いというだけではなく、コンクリートの壁に遮られた熱気は逃げ場なくそこにこもるほかなく、風の抜けるスペースはもうどこにも残されていない。なにより暑さを凌ぐ場所がこの都市にはほとんどない。仕事の合間、車を止めようとしたって、僅かな木陰には既に先約の車がいっぱいで、こんなところも渋滞かと思いただウンザリするだけ。逃げ場がないという感覚はこんなところでも拍車をかけられる。こんな住み難い街で生まれ育つ子供は一体どんな感覚を身につけていくのだろう。それともこんな状況でも子供達はその持ち前の創造力で彼ら、彼女らなりの居場所を見つけているのだろうか? 
ノートの日付をみるともうこの五月から書き始めているはずの物語も、夏の間はほとんど放棄してあった状態だったが、ここにきてまた書き始めてはいる。このページでの文章も書き始めてもう数ヶ月たつ。インターネットという環境の下で、誰かに見られるかもしれないという条件を課せられるというのも(実際は、誰も見てないけど)それはそれで刺激になることではあった。だが、その誰かに見られるかもしれないという条件の下でしばらくやっていて、知らぬまに今度は何かを書かねばならないというような色気が出て来てしまって、少しここで書くのがつまらなくなった。とくにこのような雑文、エッセイ風の書き物をしていると、何か他人を過剰に意識してしまうような気がする。
その点、物語は何かについて書くといったことをほとんど意識しないで済む。というより、そのことを意識しないようなやり方で書いているといったほうがいいかもしれない。ここでの物語というのはストーリーというようなものではない。話しの筋というようなものにはもともと興味がまったくないし、その意味でいうなら今書いている物語に話しの筋などない、といってしまうともちろん言い過ぎになってしまうが、とりあえずそのことは後にまわしておこう。
ともかく、話しの筋のようなものはまったく考えずに書き始め、今も書き進めているのは間違いない。創作ノートのようなものは今までも作ったことがないし、今の物語にもそんなものは存在しない。だた、一人の男を歩かせてみること、その横に女がいる、そして自殺した親友、うたうこと、余所者、決まっているのはそんな切れ切れのキーワードのようなものだけで、もちろん結末などまったく何も考えてはいない。
そもそも書く、といっても一日、二時間ぐらいがせいぜいで、そうなると書ける量だって、原稿用紙一枚分もいかない日もあれば、よくても五枚がいいところなのだ。そんな状況でやっているから自然出来上がって来るものは断片の集積といった面持ちになってくるし、別にそれで困ることもないからそのまま書き次いでいる。これでまとまったものが出来上がるのかしらん、と自分でも何か半笑いの状態で、自分が書いている姿を見守っている。まとまった状態が出来上がったら、少しは金に変わる方向を探してみたいとも思っているけど、ともかく万事がこんな具合に進んでいるから先のことは分からない。
だが、それでいいのだ、もう誰に対しても何の義理もないのだから。
何についても書かれていない物語。あるいは何かについて書かれたわけではない物語とでもいうか。もともと物語とはそんなものなのかもしれない。(2005.10.14)



流動化する社会

フリーター、という言葉を自分では使ったことがないし、自分のことをフリーターであると自覚し規定したこともない。そもそもフリーターという語の意味するところがわからない、というかわかりたくない。端的にその言葉を拒否する、とでも言うか。
きっと世間から見れば今置かれた状況は、紛れもないフリーターでしかない存在であり、さらに今風の言葉で規定すれば、切り捨てられる弱者であり、負け組、ですらあるのだろう。だが、それがどうした。結局、それは一つの見方、たかだか一つの考え方に過ぎない。
杉田俊介という人が書いた「フリーターにとって自由とは何か」という本を読んだ。著者は慎重に慎重を重ねる筆致で、真摯に「フリーター」という言葉の位置を定位させようとしていく。その行程でこぼれ落ちていく言葉をどう使うかはもちろん読者の自由だろう。アホ面を下げ、欲に突き動かされるだけのガキどもや、いつまでもへらへらと家族や資本に寄生する三十過ぎの若年寄連中は、この本を読んで己の未来の暗さを自覚し、覚悟するのもいいかもしれない。著者自身あとがきで、我々はもっと怒っていい立場にある、というようなことも書いている。だが、この本は単なるアジテーションの本ではない。むしろ、そのことの不可能性を立証している書とも読めるかもしれない。
どうとでも読める、というのが結局この本の限界なのだろう。パートや契約社員、あるいは派遣社員という雇用形態が、資本にとって都合のいいものであるというのが事実であるとしても、だからといってパートや派遣社員だからだめだ、というわけにはいかない。人にはそれぞれ事情がある。フリーター、という言葉を使って考えるかぎり、上のような曖昧で単純な事実をただ繰り返し指摘するにとどまるだけだ。フリーターという言葉を使う限り、あるいはフリーターという言葉が成立するような視線に立ち続ける限り、最後まで自由に辿り着くことはないだろう。
よくは知らないのだが、世の中には2007年問題というのがあるらしく、何でも「団塊の世代」(とはいったい何者なんだろう?)の大量退職にともなう社会の変動が今とりざたされているらしい。それにも関連して、大学生の就職率が上昇傾向にあるというニュースも目にした。もちろんこれらの事例をもとに現状を分析しようというわけではないし、そんな力量もないのだが、ただ、こうやって社会が流動化していくのはいいことのように思える。もちろんその流動化に伴い、社会はどんどん悪くなり、自分の置かれる状況もさらに厳しさを増すだろう。かといってこの流れを食い止めることは誰にもできないのだろうし、その必要もあまり感じない。
この近代社会という建築物は少しづつ崩れ落ちていく。それを建て直そうとするのはあきらかに反動的な姿勢だ。その反動が世界のあちらこちらで、今までと同じやり方のままあがき続けている。イラクやチェチェンで起こっている悲惨な出来事。沖縄という占領地。フランスでは暴動が起こっているという。
現状を追認し、自然に任せよというわけではない。たが、全体を俯瞰するような偽の立場に立つ限り、そこから見える偽の展望にいつまでも振り回されるばかりで、現実が変わることはない。
展望を見極めてから自分の進むべき道を探す、それではいつだって動いている現実に遅れるばかりだ。社会の流動化が加速度に進む今後、展望の無意味さを実感する以前に、人はヒステリックにその場しのぎの行動に出るのがせいぜいだろう。それを食い止めるのは理論や情報ではなく、現実と向き合う姿勢なのだ。(2005.11.12)



少しずつ、違う場所へ

二十代の頃は何度か、目の前のすべての事柄や人間関係を振り捨ててリセットするというようなことをした覚えがある。今、置かれている状況の中ではなかなかそんな風な強引なこともできない。かといってこのままここにいるわけにもいかないから、それとは違うやり方を考えることが必要になる。
目に見えるものを変えて、それが何か変わったことになるのか? 
見えないものを感じようとすること。その見えない何かにつき、動いて道を切り開いて行く。これは別に神秘的なことでもない。ごく当たり前のことに気づく練習とでもいうか。
もちろんこれも一つの試みに過ぎず、うまくいくかどうかはわからない。
この一年はそんなことを考えながら過ごして来た。その前の二年間がほとんど何をしていいかわからなかったことを思えば、少しは違う風を感じられた一年だったのかもしれない。その拙さに苛立つことは多いけど。
きょろきょろとまわりを見回したところで展望が開けることはない。もうそんなことをしている暇もない。世間知らずで結構。権力に囲われ、寄り添うことはそんなに楽しいか?
現実を疑う前に、現実を見る目を疑うことも決して無駄ではないだろう。今の現実にまったく興味が持てないというのも、見るべきものを見ていないからなのかもしれない。今は過渡期。仮に新しい現実が開けるなら、おのずと言葉も変わっていくだろう。(2005.11.27)



病者の光学

病院からの帰り道、全身に力の入らないまま、よろよろと街を歩き、地下鉄のホームへ向かう。週末の午後だというのに誰も彼も、ものすごい勢いで歩いていく。普段は自分もこの流れの中であくせく暮らしているんだ。やれやれ
お決まりのことば、お決まりの反応でこと済ませることになれてしまった人々。置き去りにされた心は一体どうなるか。いや、それはそれ、これはこれとしっかり使い分け、大事な心は家に帰ってゆっくりとまなでるということか。だが、すでにその心は、つくりもののフィクションに過ぎない。心は目の前にあり、その心に気づけないなら、ただはかなく消えていくだけ。
すぐに日常は修復されてしまう。病から眺めたシステムの裂け目も、幻のように遠のいていく。
いつだって、現実のフレームに囲われて生かされているんだ。この現実こそただの蜃気楼に過ぎないのに。誰であってもそこから逃れられないなら、蜃気楼に惑わされないための術は必要になるだろう。(2005.12.11)



今、やっていること2

ここまで半年以上書きついでいる物語は、最初は今年中にケリをつけるつもりでいたが結局もう少し書き続けることにする。なんとなくまだ終わらせたくないという感触が強いから、といいつつも、もう何日もその物語は書きつがれることのないまま放ってあるのだけれど。万事はこんな感じでここまで進んで来た。すべては断片の集積。あるときにまとめて取りかかってはしばらくそのまま放置され、さて何を書いていたんだっけと、いくらか前にさかのぼって読み返した後、なんとなくその続きとして読めるようなことばを捏造してまた書き始める。
この半年程は弁当屋での労働とその物語を書くことで生活が成り立っていた。だけど最近はその生活のサイクルに満足できなくなってきた。いくらかの微調整が必要な時期にあるのかもしれない。少し考えはあるけど、先のことを言うと鬼が笑うというから、それはここには書かない。
今年は特にこれといった経験もなく過ぎていってしまった。かといって何もしなかったというつもりでもないのだが。
過渡期のとき、と言うほかないのかもしれない。いくらかの変化は感じるがそれがまだ具体的に見えてこない、そして、まだ違ったことばは生まれてこない、というところか。
物語は手書きとワープロを併用して進めている。本当はワープロで直に打ち込むのが一番面倒がないのだけれど、なかなかそこまで割り切れないまま、手書きでいくらか書き進んでは、画面に打ち出し、読み直すという手間な作業を続けている。
ワープロはことばを読むには特に支障を感じない。むしろ読むやり方で書くことができるとでもいうか。高橋悠治もどこかにそんなことを書いてはいなかったか? それはともかく、ワープロでことばを打ち込むという作業はどこかことばというピースを枠にはめ込んでいくパズルをやっているような感覚を持ってしまう。これは危険な兆候だ。出来合いのことばで現実を割り切ることはできないし、そんなことに何の意味もない。そのやり方ならいくらでも書くことは出来るのかもしれないけど、それは、ことばがただ増殖していくだけのこと。現状を打開することには何の役にも立たない無意味なことば。あるいは争いの種そのものであることばの群れ。
ことばは記号ではない、というとき、ではことばというものをどう考えるべきか。
手書きでやるときは何はともあれそこで手が動いていることを感じることができる。それと最近、安物の万年筆を使っているが、そのカリカリという乾いた音が心地よい。書き付けるのは縦書きのノート。
ことばという記号を組み立てるというとき、すでにことばを外側から眺めている。そのときのことばはすでに意味の確定した安全な玩具に過ぎない。だがノートに文字を書いていく時にはそうはいかない。すでに書かれてしまったことばの内側に潜り、意味を打ち破りながら前に進んでいく。あるいはもともと何について書かれたものなのかわからないことばの内側に入り込み、手を動かしていくとでも言うか。
おかしいのは自分で書いたはずの言葉が一体、何を書いているのかわからなくなることで(それは理論的には正しいのかもしれない。それが理論の限界だ)書いていて不安になるから画面に打ち込み自分で読み返してみる。読み返してみて安心するときもあればいくらかの調整をすることもあるが、そのときの感触は決してノートにことばを書き付けるときの感触を越えることはない。結局、手書きで書いて駄目だと思えば、こうして規格化された文字に打ち出し改めて外側から眺めたところであまり良いものにはなっていないようだ。これからはもう少し読む感触ではなく書く感触を信じて進めていってもいいのかもしれない。
書く感覚を研ぎ澄ますこと。それは生きることにいくらかでも役立つのだろうか?
何はともあれ万事はこんな調子であっちへよろよろ、こっちへよろよろしながら進んでいる。別に誰に頼まれているわけでもなく、目的があって書いているわけでもないから、特にこれで困ることはない。(2005.12.31)



気づくこと

別に今年に限ったことではないが、年が明けたからといって何かが変わったという気はまったくなく、何かを刷新し、改めて始めるという心構えもない。今年は特に去年からの作業が継続してるし(物語を書いている)、その他、経済面など色々考えて、結局もう少し今まで通りの生活を続けることにしたから尚更何かが改まったという気がしない。
二十代の頃からつい最近まで、終わらせたい、区切りをつけたいというような欲望が常にあった。これもひとつの病気だったのだと今は思う。
いくらも前に進むこともないうちに、何度も何度も後ろを振り返っては、意味を探し、情勢を分析し、自分のいる場所を理解したつもりになって、御丁寧にその自分のいる場所の劣悪さを嘆いてみたりする。その間にも現実はどんどん動いているというのに。
振り返ることがまったく無意味な行為だとは思わないが、それが固定化され、ひとつの姿勢になってしまうとするならそれはやはり問題だ。それが批評的姿勢などといって美化されようが、問題のありかが変わることはない。
振り返ることは生活の中のひとつの身振りに過ぎない。
ひとつの区切りがつく、それは生活の中で度々訪れる経験ではあるだろう。だが、それはまさに、訪れる、体験であり、気づけばいつのまにか区切りがついているというような類いの経験でしかありえない。同時にいつのまにか自分が今までとは違った場所に来ていることに気づきもするだろう。そしてそんな区切りのことなど人はいつのまにか忘れてしまい、ただ生きることに没入していく。
またどこかで生活の区切りに思い当たることもあるのかもしれない。そのとき過去にひいた筈の区切りが、なんと恣意的なものに過ぎなかったかと思いあたるかもしれない。区切りを確定することに意味はない。だが何かに気づくこと、その一瞬の姿勢には、開かれた純粋さがあるのかもしれない。
何度も何度も何かに気づくこと。この試みに終わりはない。最後の答えはない。
そのことを嘆くことも許されない。
なぜなら生きることに目的はないから。(2006.1.7)



未確定な状態

一年半程前、人に貰ったテレビが壊れ、またテレビのない生活になった。また、というのは友人からその今回壊れたテレビを貰うまでは同じようにテレビのない生活をしていたということなのだが、別にテレビは、ないならないで困ることはなかった。むしろテレビがあるとついダラダラとテレビの前で過ごし、時間を無駄にしてしまうことが多々あるから、ないほうが生活がすっきりするというものだ。
以前、テレビのないときには、ラジオでニュースを聞いていたが、今はコンピューターがあるからそれもやらない。メディアを通しての世間との接触は今は最低限で済んでいる。世間、などというものにはいつもイライラさせられるだけだから、この状況は決して悪くはないだろう。
こう書いてみて、改めて時代の変化を思う。以前は確かにある種の共通認識、常識、世間、道徳、大きな物語、というような言葉で表される何かが存在するかのように人々は動いていた。だが、今はそれらの言葉で表されるべき何かが、何の現実性もない単なる幻想に過ぎないということに誰もが気づいている。その感触を加速させているのが、情報の不足、ではなくその過剰であるという事態はやはり皮肉なことではないだろうか。ある一部を冷やせば土地全体は熱くなる、というようなパラドクスがここでも働いている。これも近代の限界の一つ、ということになるのだろうか。
耐震強度偽装問題や企業の粉飾決算の問題など、それがある人達の間で騒がれていることは理解できるが、こっちはそれらの事柄にまるで興味を持てないでいる。それはまるでどこか遠い土地での出来事のよう、という言い方が良いか悪いかわからないが、ともかく自分の生きている場所とは違うところでの出来事であるのは間違いないようだ。それともそれは単に、マンションを購入する予定もなく、企業の決算に介入することもない貧乏人の感想に過ぎないからなのか。
関係があるとも言えず、無いとも言えない者同士が隣り合って、日々は過ぎていく。その曖昧な状況を、一つの共通認識のようなもので束ねることはできないし、その必要もない。この不安定な状態に耐えられない人達が、もっともらしい嘘を求め、そこに群がっていく。(とはいえ小泉とかいう嘘の塊のような人間のどこにもっともらしさがあるのだろう。もっともらしい嘘などつけません、と開き直っているところがアホどもの共感を呼ぶのか)
ただ、隣人の声に静かに耳を傾けること。それが決して易しくないことだとしても。
先日、チェチェンでの状況の一部を伝えるドキュメンタリー番組が放映されたらしい。こっちはテレビを持っていないし、どこかに見に行く時間もなかったので、その番組は見れなかったが、チェチェン関係のwebページなどをのぞく限り、隣人の悲鳴がすぐそこで上がっているのは確かなことのようだ。(2006.1.22)



アンチ評論家

最近、ほとんどはじめてといっていいぐらいにボブディランを聴いている。今まで聴いたことがなかったのはもちろん興味が湧かなかったからというだけでなく、なんとなく嫌だなという感触があったからで、ここのところ気に入って聴いているとはいっても、今まであった、そのなんとなく嫌な感じが消えたわけではない。
聴いているといっても、適当に当たりをつけてほんの数枚のCDを買い込み部屋にあるボロのプレイヤーで流しているだけだから、ボブディランに詳しいと思っている人から見ればほとんど聴いたうちにも入らない程の聴き方に過ぎない。だがこっちにしてみればそれで充分という程の聴き方ではある。
ボブディランに影響を受けたというミュージシャンは世界中に腐る程いるはずで、それらの人達の奏でる音はその人達の音に対する接し方、聞き方を映し出さずにはいないだろう。ああ、ディランをこう聞いているからこんな音楽になっちゃうんだな、とその本家本元の音を聴いて何人かのミュージシャンのことを思い出しながら、妙に納得もする。
世に流布されているディランとは違ったディランの聴き方。ディランももう少し違った風に聴けるのでは、そんな風に考えていたのは確かだが、他にもそんな風な感触を持って気にはなっているが、なかなかきっかけがなく聴きそびれたままでいる音楽家は何人もいる。
さて、別にボブディランのことを書こうと思っていたわけではなく、考えていたのは出来上がってしまった音、書かれてしまったことばをどう使うかということだった。
出来上がった音や書かれてしまった言葉についてあれこれ評価を下すという行為は基本的に下らないことであり、生きることに何の役にも立たないという気がしてならない。大事なのは言葉の意味を探ることや、音の評価を競い合うことではなく、それらの音や言葉を使って自分が何をするかということではないのか。
重点を聴くことや読むことから、行為することに移動させるとき、例えばボブディランという名は、消えることはないとしても無意味な後光がさすことはないだろう。
音や言葉に、自分勝手に意味を読み込むことはできない。それは音や言葉は思う通りに動かせないのと同じことだ。だからといって、そこに決められた意味や評価を読み、確認することの無意味さが正当化されるいわれもないだろう。結局、今、目の前にある必然を飛び越えて聴かれる音や読まれる言葉は、ただファッションとして消費されるだけだ。
本屋で雑誌をパラパラと眺めてみれば、相も変わらず退屈な評論活動が盛んに行われているのがわかる。それぞれの肩書きは色々だが、やっていることは、自分では何もしないまま偉そうにものをいうだけという昔ながらの評論家のそれと変わるところはない。ネットを眺めてもその悉くがくだらない日常を書き連ねるか、評論家気取りにあれやこれやのご託宣をほざく、というものがほとんで、言葉の世界では創造、創作という行為はまるで無きがごとくの状態だ。きっとそれは言葉の世界に限ったことではないのだろう。今、創作の分野に携わる人達だって、なんと忠実に自分たちの言葉を読み、音を聴いていることか。それは単純な自己模倣と呼んで済ませられるほどの気楽な事態ではないだろう。あれやこれやを試せば試すほど、その作者が回避している現実が浮き彫りになったしまうという皮肉。
自分の書いた言葉は自分のものだといえるのだろうか。例えばボブディランはボブディランの音をどんな風に聴いているのだろう。
別に自分が作った作品だからといって、特にそれについて何かを知っているとは言えず、特権的な位置に立つことは許されない。目の前の必然という試練に耐えられぬ作品をただ愛でることは、醜い自己保身に陥るだけだ。
とはいっても自分の書いた言葉が自分の生きることに役に立つということも、無いとは言わないがほとんど稀なことなのかもしれない。
書かれた言葉は他人の言葉とするならそこに残るのは書くという行為だけなのか。
(2006.2.11)



日々の雑記

このwebページに文章を載せることをはじめて一年が過ぎる。一年という区切りに何の意味もなく、振り返るほどの成果もない。 ほとんど何も考えず、自分の書いた言葉を碌に読み返すこともないままここまで書き次いできた。単にこのまま書き次いでも惰性に終わるだけのような気がする。いくらかの調整が必要なときなのかもしれない。
このページに文章を載せることは、生活のほんの僅かな部分で行われていることに過ぎない。いくらかの調整、とはいってもここでやっていることは言葉をワープロに打ち込むということだけだから、書くという行為に関しては特に変えうることはない。結局、ここでの言葉を変える必要に迫られているとするなら、生活そのものをいくらかでも変える必要があるということになるのではないだろうか? 
書かれた言葉、という意味でもここに載せているものはその一部に過ぎない。というのは依然、自分のノートに物語を書き次いでいるからだ。その物語は予定では当の昔に終わっているはずだったのだが、結局、今は期限を決めることなく自分のペースで書き進めることにしている。今はこのページに載せる文章をワープロに打ち込むことより、自分のノートに手書きで物語を記していくことの方が、書くという意味での感触は強い。それは単にワープロと手書きの差異というわけではないだろう。
この先、ああしたい、こうしたいというたわいもない願望はいくらでもある。だがその願望に向け、準備し、突き進むというわけにはもういかない。今は、仮にそんな風に目的に向け一心不乱に突き進むことで見えなくなる何かに興味がある。いや、別に目的に向け進まなくとも、それはいつだって目には見えないし、日々、用心深く過ごしていれば感じられるというものでもないのだろうが。
だが、現実に対応できる身軽さはいつでも持っていたいとは思う。現実を思うようには動かせないが、荷物を減らすことは自らの意志でできる。
春はどこか苦手な季節だ。特有の寒暖の差に身体がなかなか対応できない。活発に動くには冷たすぎるし、静かに内に籠るにしては、日差しが眩しく、暖かい。どこか、一歩踏み出しかねてしまうような季節。
と、自分の怠惰な性分を季節のせいにして今回はこれで終わり。(2006.3.5)



今やっていること3

三ヶ月程前、書いている物語が百枚くらいになる頃、もう少し書くことに重点を置けるように日常を調節したほうがよいのでは、と考える。
もともと雑誌の公募に出すつもりでその物語は書き進められていた。規定が百枚以内、期限の前にその枚数に達しはしたが、肝心の物語が終わらなかったので、とりあえず懸賞に送ることは辞めて、先を決めずに物語を書き進めることにした。
もともと目的があっての物語だったから、それまでは時間がないなりに無理をしてなんとか書きついでいたのだと思う。思う、というのはついこの間のことなのだが、そのときの、言葉を書く感触が、自分の中からきれいさっぱり消え去っているからだ。期限を設けてがむしゃらに書くなんて、今、考えるとまったく信じられないことだ。
そこからまた物語を書きつぐということは単にそのまま物語の続きを書き進めていくということではすまない。書きかたを変えたければ、生活を変えなければならない。
だが、そこから別な生活のペースをなかなか掴めないままここまで時間だけが過ぎてしまった。物語の方も結局中断したまま。ここ何日かでようやく十枚くらい書いたか。
去年、このweblogをはじめたのはやはりひとつのきっかけだった。その頃からまた書いているという感触が戻って来る。
それまでの二年間は何も書いていなかった。それは、それまでのやり方に行き詰まり、さらに書くことの意味もよくわからなくなったからだった。もう書かない、とは考えなかったがしばらく中断という意識は確かにあった。
その頃は書くことが目的だった。だがそれがそもそもの誤りの元だった。書くことを目的とするのではなく、ひとつの手段として書くことを利用できないか、そんな風に考えはじめた頃このweblogをはじめた。
理想の生活があるわけではない。だが書くことで日常との距離を計ることはできる。書くために生活を変えるわけではない。書くことで生活の矛盾や課題が見えてくる。別に生活を変える、といっても表向きは何ら変わるところはない。せいぜい自分にだけわかる微調整に過ぎないのだけれど。
何を書くか、あるいはいかに書くかという以前に、まず書ける状態、書く体勢を調えなければならない。別に特別なことをするわけではない。仕事から戻って生活の雑務をこなしながら、適当に本を読み、音楽を聴き、ようやくそろそろ書けるかという状態になる。だが、困るのは、ようやく書けるかという状態になるまで時間がかかり、肝心の書く時間が少なくなってしまうことだ。ここではたと考えてしまう。身体や頭を書く状態にするというのは固くなった頭や身体をほぐすことと変わらない。いってみれば運動をする前のウォームアップだ。しかし、書く以前の時間、何をしているかといえば、別に眠っているわけではなく、仕事で身体を動かし、頭も使ってはいる。書くことと働くことは違う、といってしまうのは簡単だ。だがそれでは書くことと働くことはまったく無関係で、どちらかに重心を置けば、他方はその存在の意味がまるでないということになるだろう。 日常に没頭するのはたやすい。あるいは日常の無意味さを受け入れ、その無意味さに対抗するため非日常を構築する。結局、それは退屈な日常を認めることでしかなく、そこから世界が変わることはないだろう。
とはいっても書くまでにそれだけ時間がかかってしまうということは、自分も日常の枠組みにはめ込まれ、その枠組みに身体を規定され、考えさせられているといくことではないだろうか?
そうではなく、書くことで日常を見返してみること。書くことで広がる生活の息吹で日常を被い尽くす、あるいは日常を日常として見るのではなく、日常の中にも生活の息吹を見いだす。だが、それにも限界はある。どんな日常でも自由に変えられるというわけにはやはりいかない。
ともかく今は生活の基盤を形づくることを考えている。とはいってもその生活の形、輪郭が調ったところで、それでも矛盾や修正点は残るだろう。そこを起点に生活はまた変化を続ける。この変化の息づかいに乗って、自分も少しづづ変わっていくだろう。(2006.3.19)



過去はどこにもない

(もう七、八年前、まだ二十代の頃に書いた文章の断片。ここでのいくつかの言葉は、今、書いている物語の中に、また違った形で使われることになるだろう)
四年ぶりに戻ったその家には、月日を経たなりの傷みがあらゆるところで目に付き、女は今にも朽ち果てそうな廃船を見るように思った。
外装は色褪せ、汚れが染みのようにこびりつき、庭には草が生え放題でさながら小さなジャングルのようなまま放置されていた。屋根伝いの樋は排水溝に枯れ葉が詰まったままで、少しの雨が降っても水が溢れ出し、まるで嵐にでも見舞われたかのようにばしゃばしゃと音をたてる。隣の敷居とを隔てる鉄柵はすっかり錆つきボロボロに崩れかけていた。
姉夫婦は、女が家に戻る三日前に荷物を運び出し長野へと発っていた。空き巣でも入っていない限り、この三日間、家に人の出入りはまったくないはずだった。荷物が運び出されガランとした室内の空気はひんやりと感じられ、少し湿り気を帯びているようにも思える。女が高校を卒業するまで使っていた二階の六畳間には、部屋の片隅に小さな木目のテーブルがポツリと置かれているだけで他には何も残されていない。女はそのテーブルに見覚えがなかった。女はそのまま部屋の真ん中にペタリと腰を下ろし、改めて何もない部屋の中を見回した。天井には、所々うっすらとした黒ずみが浮かび、剥き出しの畳は、ものが置かれていた場所とそうでない場所のとの色が、見た目にもくっきりと違い、縞模様を描いている。家具を引きずったようなすり切れもある。
女が高校を卒業し、大学に通うためにアパートで暮らしはじめたあと、ほとんど物置同然に使われていたこの部屋は、もう昔の面影を残していない。唯一、備え付けられたままになっていた見覚えのある薄汚れたブラインドが、開け放たれた窓から吹き付ける湿った風に吹かれカタカタと音をたてた。女は窓を閉じ、しっかりと鍵をかける。
その日の午前中のうちに三つのダンボールが宅急便で家に届いた。ダンボールの他に女が自分で担いできたボストンバッグが一つとリュックが一つ。女がこの家に持ち込んだ荷物はそれだけで、あとはアパートを引き払うときにすべて処分してしまった。所詮他人の家、という思いが女にはあった。それほど長くここにいるつもりもない。すぐにまた移動できるように身軽でいたい、女はそう思っていた。片付けるというほどの量でもない荷物を後にまわし、女は午後から庭に出てその生え茂った草をむしりをはじめた。上を後ろに束ね、虫に刺されないようにと長袖にジーンズを穿いて、軍手をはめ、首にはタオルを巻き、腰には虫除け用に蚊取り線香をぶら下げる。鏡に映った自分のその姿を見て、戻ってきて早々一体何をしているのかと自分自身思わずおかしくなる。
六月に入り、梅雨入りが伝えられたあとにも雨の降る気配はまったくなく、夏を思わせる蒸し暑い日が何日も続いていた。その日も朝から晴れ上がり気温は二十五度以上になっていた。その上、女の腰の高さまで届くほどのに生い茂った雑草の中に立つと、逃げ場のない熱気が身体にまといつき、女の長袖のシャツの下ではすぐに汗が噴き出した。女はその熱気の中にしゃがみ込み、時折額に流れる汗を首にかけたタオルで拭いながら、一本、一本根元から草を引き抜いていく。
いつのまにかまわりのものすべてがすこしづつズレ、違っていくことを女は感じていた。もともと大学に何か期待を持って入学したわけではなかった。最初から退屈だろうと考えていたものが予想通り退屈であったというだけで、女はそのことに失望したわけではなかった。退屈さが被う日常の中でも、身の施しようはいくらでもあると女は思っていたし、事実いくらでもやりようはあったはずだった。だが、結局女は自らの違和感を抱えたまま、何一つ手を着けぬまま、無防備にその場に立ち尽くしただけだった。大学二年に上がった頃からほとんど大学の授業に出席することもしなくなり、回りの人間とも疎遠になっていく。女は一人でぶらぶらと本を読んだり映画を見たりしながらだた無為に時間をやり過ごしていくだけだった。
向かいの家に住む顔見知りの女に突然背後から声をかけられたとき、妙子は咄嗟に恥ずかしいところを見られてしまったように感じた。妙子は汗まみれになった身体を起こし振り向くと、自分の母親と同年輩のその女は満面の笑みを浮かべ門の前に立ちこちらをのぞき込んでいた。妙子はその人の好い表情に吸い込まれるようにふらふらと立ち上がり、女の側に立ち挨拶を交わす。妙ちゃん、妙ちゃんと親しげに呼びかけられる度にそれが自分のことではないように思える。今日の午前中戻ったばかりだと妙子が説明すると、自分はこれから夜勤に出かけるところだと女は話した。女は病院に勤め看護婦をしていた。女の息子と妙子は中学の同級で、この春から高校の教師になり、今は家を出て生活していると、女は自分の息子の近況を妙子に話して聞かせる。女は妙子の母親とも仲がよく、昨日も北海道にいる母親と電話で話しをしたと妙子に聞かせた。
「お母さん、心配してたよ」
「そんなことないよ。もう、見捨てられてるからさ」
妙子はそう言って笑った。昔から馴染みの、その女の人懐っこい表情を見ていると、そんな世間話もけっして煩わしいものに感じられない。
「みんないなくなって、寂しいねえ、妙ちゃん」
女が冷やかすような笑顔を浮かべながら妙子に訊ねる。この歳になって寂しいも何もないと妙子も笑って答える。離れて寂しがるほど私は親と仲良くもない、とでも言おうかとも思ったが妙子は上手く笑えないような気がして口を噤む。
妙子が家を出た後、それまで同居していた祖父母が相継いで他界し、十五年飼い続けた犬も去年死んだ。
旧友と呼べる人間ももうここには残っていなかった。話しだけがどこからともなく伝わっては来る。結婚に出産、就職、という月並みな話しから、親の会社の倒産や背任行為、自殺や事故死といった話しすらあった。事情はともあれ、まわりの人間が何処へ行ったのか、妙子はまったく知らない。一人ここに取り残されてしまった、そんな思いが浮かんでは消えていくことが度々あった。
偶然に転がり込んだ猶予期間だった。大学だけは卒業したものの、就職先を探す気にもなれず、在学中から働いていいた喫茶店でのアルバイトを続け、妙子は相も変わらぬ無為な時間をダラダラと過ごしていた。義兄の転勤が決まり、一年後、父親が定年を迎え母親とともに北海道から戻ってくるまでのあいだ、この家で留守番がてらに暮らさなければならないとなったとき、妙子は、今までのダラダラと続く時間の流れを断ち切る良い機会だと思った。家賃を払わない分、生活費は浮くはずだったし、一年間とりあえず働き、またこの家を出て生活するだけの費用を貯めればよい。すべてを無造作に投げ出すような思いで、妙子はアパートを引き払いこの家に戻ってきたのだった。
うずたかく集められた枯れ葉や雑草を詰め込むとポリ袋三つがまるまる一杯になった。日は西に傾き、涼しげな風が頬を掠める。妙子はポリ袋をまとめて脇に置き、改めてすっきりとした庭を眺めた。汗は乾き身体は既に冷えかけている。湿ったシャツが不快だった。改めて眺めるほとんど庭とも呼べないほどの狭い空間は、草を刈ったことによってきれいになったというより、ただ閑散とし、どこか殺伐とさえしているように思えた。水を与える鉢があるわけでもなく、空間を彩る花が咲いているわけでもない。名前もわからぬ痩せ細った木の葉だけが西日に照らされて妙に青々として見える。乾いた土の上に角の欠けた赤いレンガが一つ、何のためにそこにあるのかもわからないまま転がっていた。妙子は一仕事終えた開放感も薄れ、風に吹かれ湿ったシャツが背中に触るのに身震いしながら、一人誰もいない家の中に戻る。
(2006.3.27)



この二週間

某月某日
前から見ようと思っていた映画「ドッグ・ビル」をようやくDVDを借りて見る。なぜ気になっていたかと言えば、ニコールキッドマンが美しいことと作家の阿部和重がこの映画を褒めていたから。とはいってもその阿部和重の文章を全部読んだわけではなく、ざっと拾い読みしていただけだから、映画を見てからその文章を読み返そうと、図書館にいって記憶していた雑誌のバックナンバーを探してみるが、当のその文章は結局見つからず、阿部和重が何をどう褒めていたのか結局分からずじまい。
さて肝心の映像の方は、ニコールキッドマンが期待通り美しいことに感動。あっ、探していた阿部和重の文章というのは確か、中原昌也との対談形式のもので、その中で中原が、ニコールキッドマンが映画で乳首を出していないのは納得できない、というようなことを言っていたのを思い出した。納得できないとまでは言わないが、実際見て、なるほどとは思う。
ネットで調べると、実はこれを作った監督はなかなか話題の監督らしく、さらに今現在、「ドックビル」の続編である、「マンダレイ」が上映中らしい。機会があれば見てみたいが、さてどうなるか。
某月某日
the easy walkersの新譜「愛の新世界」が発売日前に店頭に並んでいるのを見かけさっそく買ってみる。サイコー。ギターのノイズ感、良志彦の声、言語感覚、妖艶なその身体の動きを思い、酔いしれる。やっていることはいつもと変わらないが、もし前作との違いがあれば、新加入のギターリストが完全にeasyのサウンドに馴染んでいることだろう。そのことで五人のメンバーのコンビネーションの良さが、音に如実にあらわれている。
とはいえ、ロック、という枠組みの中で動いていて「新世界」が開けるのかという疑問は依然残る。
某月某日
四月に入り、弁当屋の仕事が俄然忙しくなる。どこの会社も新入生の研修会やらなんやらで、特注の弁当が増える季節なのだ。弁当屋で働くのは問題は山ほどあるとはいえ基本的に特に苦痛ではない。とはいえやはり時間的にも体力的にもその負担が過重すぎる。もう少し、生活の中での比重を少なくするために多少の裏工作が必要だ。
某月某日
友人に誘われて、勅使河原三郎の舞台を観る。ダンスのことはまったく何も知らないのだが、もう何年も前、高橋悠治が企画した「節分前夜」というコンサートでインドネシアの舞踊家、サルドノ・クスモの舞踊を見て以来、興味だけは持っていた。勅使河原三郎のこともその友人に言われるまでまるで何も知らず、この日もその何も知らないままの状態で舞台を観る。この日は勅使河原三郎がメインで一時間以上踊っていたのだが、最近はあまり踊ることがなかったらしい。その彼の踊りが見れるということで、勅使河原の舞台を直接手伝っていた友人はわざわざ声をかけてくれたのだ。Iさんありがとう。ものすごく楽しめる舞台でした。
さて、肝心の勅使河原の踊りだが、素人のぱっと見の印象としては割と演劇的に見える。永年の修練の賜物とも言うべき鋭い動きに混じって、ときおりコミカルともいえる動きが混じる。その動きのいくつかに、身体に障害がある人の動きを想像するが、舞台後の宇野邦一との対話のなかで、盲目の人とのコラボレーションの話しが出て、なんだ、見たまんまなのかと思いかえって拍子抜けする。素人目で見てもそれとわかる、その独特の動きをどう考えるか。対話の中で、勅使河原自身そのことを批判されたことに憤慨し、自分は盲目である一人の人間との対話の中でその動きを体得したことを強調する。はたしてそれが、勅使河原の言う通り確かな対話のなかで生まれた踊りなのか、あるいは単に紋切り型をなぞっただけなのかは、素人が一度見た限りでは判断はできない。他には舞台音響の甘さ、音響と踊りの関係の甘さが気になった。宇野邦一のそのいかにも教授然としたようなふんぞりかえった椅子の座り方と醜くふくらんだ腹に気分を害する。
立教大学の新校舎で行われた舞台の帰り道、流賀良志彦のステージ上の動きを、ひとつの舞踊として捉えることができるのでは、と思いつく。大野一雄は知らないかもしれないけど、三島や寺山修司は知っているみたいだし。とはいえこっちは大野も三島も寺山もまったく知らないからただのあてずっぽうに過ぎないのだけれど。
某月某日
渋谷でリュックフェラーリのドキュメンタリー映像の上映会に行く。どうせがらがらとタカを括っていくとお客さんが一杯でびっくり。字幕なしのフランス語をまったく理解できず。メシアンは禿げたジョニーデップだとかクセナキスの顔の傷は結構深いのかとかそんなことを考えながら最後まで見る。
四月八日
日記風の文章をweblogに載せる。あと何本かの映画といくつかのライブにも行ったのだが、もう書くのが面倒なのでやめる。もともと生まれてこのかた日記というものをつけた覚えもなく、今回書いてみてもまるで面白いと思えない。この二週間はなぜかまとめて映画やライブに行ったから、もうお金がないので来週からは家に籠って物語の続きでも書くのだろうと考えているが、さてどうなるか。(2006.4.8)



規範からの逸脱

規範から逸脱することの無意味さ。
逸脱は常に逸脱すべき規範を前提としている。過去に逸脱を声高に唱えていたものが今やすっかり寝返り、保守化している現状になんら驚くべきことはない。
今や規範が規範と成り得ていないともいえる。規範となるべき社会はもう随分前から気が違っている。体制という名のキチガイ共の巣窟。そこからの逸脱を考えることすらまるで無駄なことだ。未だに社会を自らの手で変えられると考える連中、あるいは社会は変わるべきだと主張することの無意味さ、虚しさ。
さらに踏み込んで考えるなら、規範と、そこからの逸脱というものの見方それ自体が、すでに某かの罠にはまってしまっているとはいえないか。 今は、未だ何も起こっていない空間が目の前に広がっている。あるいはその自由な空間をいかに感じられるかが問題になっている。行いは自分のこと、評価は他人が下すもの、であるなら評価を当てにすることが一体生きることに何の役に立つのだろうか。評価は結果に過ぎない。褒められようが貶されようが、ようは自分の行いにいかに役に立つか、ということが大事なのだ。批評はひとつの作品と成りうるのだろうか?
この社会に属している、あるいは少し外れた場所で斜に構え、世界を眺めているのか、ともかくそんな風に自分の立ち位置を定位しようとすることは馬鹿げたことだ。なにはともあれ現実がある。東京と呼ばれる場所に住んでいる、弁当屋で働いている、税金を払わされている、限られた時間と少ないお金、言葉、音、コンピューターという小さな道具箱。そんな中で自分に一体何ができるか、ということだ。
やりたいことをやる、というガキの戯言。世界を思い通りに動かしたいという欲望をいつまでも捨てきれぬままに。滅び行く社会と共に自分の足下が崩れていくことにすら気づかないで。
先週は、Another Silenceのコンサートに行った。Another Silenceはmats gustafssonのバンドということだが、こっちはバンド自体のことはよく知らぬままただ大友良英のギターを聴いてみたいと思ってトコトコと会場に足を運んだのだった。
その日、それぞれのメンバーが奏でる音の空間について全体を俯瞰するような視点に立ち、論評するようなことは不可能だし意味も無い。それぞれの観点から眺めれば、同じ場所にいながらそれぞれ違った空間を目撃することになっただろう。だがそれは現実を見まいとする姑息な相対主義(考え方は人それぞれとかなんとか)のようなものとはまるで無関係なものだ。
音が現れ、消えていく。その度に想起される空間と時間。その波のまにまに微かに垣間見える何か。
東京公演のみのゲストとしてその日参加したUAの声は印象的だった。ゲストという立場上からなのか、どこか常に様子を伺うような姿勢(のように見えた)から、その自分の一歩引いた立ち位置に臆することなく、音の狭間に声を重ね合わせていく。もちろん、誰のものでもない世界に向かい音を出すだけ、という他のメンバーの姿勢がそれを可能にするのだろう。ここに排除の原理はない。一人加われば、また違った世界がそこに創出されていく。
大友良英のホームページで彼の書いた文章をまとめて読むことができる。そのいくつかの言葉を読むだけでは、当たり前のことだが、彼の活動の全貌を掴むことはできない。だがそこでの言葉を読んだ印象とたった一度のライブ演奏を聴いた限りでは、たとえCD化された彼の音源を聴き、ライブに足を運んだところで大友良英の音楽家としての全貌など掴めないのではないだろうか。なぜなら彼の音は音を体系化されることをつねに拒んでいるように思えるから。
もちろんその手のことは音楽家に限らず、創作に携わるものなら誰でもいう。だが言うは易し、そのほとんどはただ口先だけでそう言っているというだけで、実のところ他人に理解されることを前提にものを作っているような連中ばかりだし、事実、一度、読んだり聴いたりすれば理解できるようなものばかりが世の中には溢れてもいる。
今、問われているのは創作に向かう姿勢だ。作品を理解することはただの鑑賞にすぎない。作品を理解したところで、口先だけの批評家になるのがせいぜいで、つまりは生きることに役には立たない。だが、世界に向かう姿勢を学べば、今度は自分の生活の中でそれを試すことができる。これは逸脱すべき規範や形を前提とする従来のやり方とはまるで別なものだ。
知識は世界を開かない。創作に必要なのは未だ何も起こっていない自由な空間、それをいかに感じることができるか、それを考えるには生活の中での智慧が必要になるのかもしれない。
(2006.4.23)



目次

旅のはじめに
言葉は記号ではない
Mさんのこと
過去を振り返ること
ただ生きるだけ
桜の木の下から
1+1は2にならない
どこにも行かない
バンド活動
今の生活
日常と生活
死者の季節
乾からびた場所から
Sさんへの手紙
まっとうに死ぬのは難しい
怠惰な姿勢
夏の終わりの覚え書き
覚え書き2~秋のはじめに~
中断する物語
今、やっていること
流動化する社会
少しずつ違う場所へ
病者の光学
今、やっていること2
気づくこと
未確定な状態
アンチ評論家
日々の雑記
今、やっていること3
過去はどこにもない
この2週間
規範からの逸脱