高橋悠治の名前を知ったのは多分十代の終わりの頃、村上龍と坂本龍一の共著である「EV.cafe」という対談集の中でだったと思う。ちなみに浅田彰、柄谷行人、蓮實重彦、山口昌男といった人達、いわゆるアカデミズムの存在をはじめて知ったのもその本のなかでのことだった。大学というものにまるで興味を持てずにいたものとしては、その大学の中に浅田彰や柄谷行人のような人達が存在すると知ったときは、やはり驚きだった。
それはともかく、その本の中で上記の四人は村上、坂本との直接の対談相手であったのだが(他には吉本隆明、河合雅雄、日高敏隆といった面々)高橋悠治はその対談の場に直接登場していたわけではなく、会話の中で何度か名前が上がり、巻末の脚注で簡単な人物説明が付されていただけだった。
とはいえそのことではじめて高橋悠治の名を知ったということは間違いない。だが、そのときは本当にただ名前を知ったというだけで、確か図書館で見つけた彼の本を手に取って読んではみたものの(「カフカ/夜の時間」)、何のこっちゃさっぱりわからんという印象が残るだけで、そこから彼のピアノの演奏やつくっている音楽を聴くということまではしなかった。
その後どこかで彼の音楽に触れたのか、本のひとつも読んだのかはわからない。仮にそうだとしても記憶にはまったく残っていない。
次に高橋悠治のことをはっきり意識したのは、まあ、同じような流れの中でのことなのだが、浅田、柄谷の両氏が編集委員をしていた雑誌「批評空間」の座談会に彼が参加していたものを読んだときだった。そのときの彼のことばの出所がよくわからなかった。そして、わからぬままにただそのことばだけが記憶に残った。
その後、機会を見つけては何度か彼がつくる音楽をその場に聴きにいった。そこでも出所のよくわからなさはそのままだった。わからないまま、ただ、違った場所から彼の動きをぼんやりと眺めていた。
インターネットの普及で高橋悠治のことばがまとめて読めるようになる。パソコンを手に入れて、青空文庫から「音楽の反方法論序説」をダウンロードし、自分でプリントアウトしたものをよく眺めていたし、「水牛」のサイトで毎月更新されていた「書きかけのノート」を読むことは、リアルタイムでことばが生成する様に立ち会えるようで、楽しい経験でもあった。彼の活動状況も彼のページで一目で分かるから、こっちが興味が持てそうなコンサートには何度か足を運んだ。
そして何年かそんなことを続けている間に、いつの間にか自分の生き方もいくらか変わっていた。
高橋悠治のことばから何を学んだか。彼のことばの解釈や思想を説明したところで何にもならないだろう。
例えば高橋悠治のこんなことば。
*身体が新しいうごきを覚えるときのやりかた。
中国武術を例にして(楽器でもおなじだが)。
まず、先生といっしょにくりかえしうごいて、
全体の構図を身体に写し取る。
要所要所で停まって、姿勢を確認しながら。
最初はできるだけ細かく区分し、
うごいている部分が感じられるほどゆっくりと、
なるにつれて、区分をおおまかにし、
なめらかに流れるようにしながら、
だが、自分でできると思う速度よりはおそく、
ていねいに、だが、軽く、よけいな力をぬいて。
うごきについての説明はほとんどない。
これができたら、次には
先生のうごきをよく見るように言われる。
脚、肩、肘、手首、手、
身体の向き、傾き、頭、胸のうごき、視線などに
注意しながら。
さらに、それらの身体部分がどのように連動しているのか。
それから、またいっしょに数回練習してから、
ひとりでやってみるように言われ、
うごきの細部を直され、
やっと自分で練習することが許される。
すると、それまでかかって写したうごきは、
もう糸がきれたようにぎごちないものになっている
こともある。
先生といっしょの時には
同調するリズムに支えられていたうごきは、
いまや自分の身体にリズムの基準をもとめて
はじめからつくり直されるのだろうか。
こうして身体に移植されたうごきは、
その身体のものになるにつれて
いくらか変わるところがある。
くりかえすうちに、
水が流れやすい路を自然と見つけるように
きもちのいいうごきの路が、
身体のなかにひらかれるかのようだ。
ここで人から人に伝わるものは何か。型は変わる。その変化はむしろ望ましいものだ。だが型は型だけでは型とは成り得ない。型を通して透けて感じられるなにか。
さらにこの一連の動作はことばでも可能なことだろうか。
例えば本の中のことばを自分で手書きでノートに写し取ってみる。ことばの意味を追うことなく、文字を手の痕跡と考えて、それをなぞっていく。
さらに今度は手本なしで自分なりにことばの型を繰り返してみる。
それを実践したのが一年半ほど続けたweblogでの試みだった(現在は「中断する物語」のタイトルでまとめてある)そのぎこちなさはまさに見ての通りである。
それでもこの試みはまだはじまったばかりだ。上に書いた中国武術を習うがごとく厳密なやり方ではないし、まだまだ流れやすい路が身体のなかにひらかれる、といった状態にはほど遠いが、少なくとも、こんな風にことばを綴ることは二十代のときにはありえなかった。
三十を少し過ぎた時には何年か書くことを止めていたけど、ここ二、三年、ノートに他人のことばを書き写したり、あるいはこうしてパソコンに向かったりしながら、また書きはじめている。そのひとつのきっかけが、音楽家のことばとの出会いだった。(06/09/18)