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二十代の履歴書

二十二歳の時、そのとき仲の良かった友達に誘われて、川崎にあった小さな食品会社で働きはじめ、それを機に、建設現場での日雇い仕事は辞めた。仕事を変えたのは、別に移った先の仕事場が特に魅力的だったというわけではなく、単に人に言われたからそれに乗ってみたというだけのことだった。ただ、そのときは建設現場での仕事がいくらか少なくなってきている頃で、事務所に電話しても、明日は仕事がないとたびたび言われるようになってもいたから、この仕事も三年近くやったしそろそろ潮時か、という程度の気持ちはあったのだろうとは思う。

商品の配達から、製造工場での作業、倉庫の商品整理、事務仕事、その会社での仕事はなんでもやった、といえば聞こえはいいが、要はあらゆることの補助仕事だった。その要所、要所には責任を持つ立場の人間が他にいたからこっちはその横でちょこまかと動いていただけ。だが、そんな立場だからこそ見えてくるものもある。
進む分業化。それぞれがそれぞれの領分に閉じこもり、あろうことかその小さな領域を頑に守ろうとさえする。だが、当然それぞれの領域がただそれだけで独立してあるわけではない。その領域間での受け渡しが行われなければ仕事として成立することはない。そしてトラブルはいつだってその受け渡し時に起こる。あっちの言い分とこっちの言い分、どっちもどっちと思う他ない声が飛び交うその場所で、こっちはただどちらにも属さないことだけを心がけながら毎日の仕事をこなしていく。工場の人、配達の人、事務の人、結局最後まで彼はどこの人でもなかったが、紛れもなく協同で仕事をする人間の一人ではあったはずだ。

別に仕事は何でもよかった。やりたいことは、などと問われればそんなものはないと彼は答え、それを探す気もさらさらないとうそぶきさえしただろう。だが常に彼の頭の片隅には、書くこと、があった。ではその書くこととは一体何だったのか。

書くことはやりたいことではないのか? 
それは今も昔も違うと言える。
では、書くことを職業にするという考えはなかったか?
それはやはりその当時はあった。だが、まだ碌に何も書けはしない時期だったから、身近にいた親しい者を除いて、そのことを口にしたことはなかった。
書くことは自分に向いていることなのか?
そのときは碌に書いたという経験すらなかったから向いているもいないもなかったし、そもそもあまり向き、不向きで自分のやるべきことを考えたことはない。問題はその行為に伴う必然ではないだろうか。

競争の社会から、あるいは選択、選別の思想から身を引くのはいい。だが、身を引くことの担保に書くことを考えていたとしたらそれはやはり問題だ。書くことは別に特別なことではないし、そもそも昔も今も、誰かに、書けと頼まれているわけでもないのだから、書くことを理由に目の前の現実から目を閉ざすのでは何の意味もない。

川崎ではじまった小さな食品会社での仕事は、勤務地が何度か変わったり、会社との雇用形態もその都度違っていたり、一度は会社を辞め、半年程時間を置いた後、またそこで働きはじめたりと、色々な状況に身を置きはしたが、都合五年程関わることになる。

その時期はまた書くことより読むことにかまけていた時期でもある。別に読むことが楽しかったわけではないし、本当に必要があって読んでいたかといえば今となってはそれも定かではない。
もしあの時期、少しでも、書くこと、を実行していたなら、今とは違った道が開けていただろう。もちろんその中には書くことから離れた道を辿るという可能性も含まれる。そう考えれば書かないことで、書くことに縛られてしまったと言って言えないこともない。
いや、その時期、書くだけならいくらでも書いてはいたのだ。だが、そのどれもが不格好な建造物でしかなく、そのどれもが完成をみることはなかった。最後まで書き切るということができなかった。
それは創造的な断片の積み重なり、あるいは開かれた未完成などというものにはほど遠い代物でしかなかった。
結局、二十代を通して言葉は記号であり、材料であって、その言葉の組み合わせによって、あるイデアを構築するという考えから抜け出すことができなかった。頭でそれを否定することはたやすい。だがそこから抜け出し実際に生きることはまったく別なことだ。
実際、その時期、書けなかったという事実は、そのままその時期の生きることの行き詰まりと重なり合う。
読むことは、新しい道を開かないというだけではなく、そのことでさらに自らの足枷を増やし身動きが取れなくなることでもあった。
現実を見ることを忘れ、はたらきかけることを怠り、ただ閉ざされた部屋の中から世界を読むことが習わしとなれば、自ずと色褪せた日常に縛られていく。そうなれば、すべてを放り出して、無理にでも日常を引き剥がし、またイチからはじめるほかに道はないだろう。それだってその場しのぎの応急処置、世界と向き合う姿勢が変わらないなら、いずれはまた同じことの繰り返しだ。
二十八の時に食品会社の仕事を辞めた後しばらくは、それまで通り横浜に住んでいたが、二〇〇〇年に東京に来た時には、まさにそんな風にすべてを放り出して、また別の生活をはじめたのだった。横浜と東京では別にたいして離れた距離ではなかったけど、何はともあれ、見知った顔がまったくない場所での生活ではあった。そのとき手元にあったのはすべてをゼロに戻したという不安と開放感だけだった。(06/09/17)