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書きはじめる頃

大学への進学について、その頃の自分がどう考えていたのか今ではもうよく覚えていない。学校に行きはじめた頃から、自分の息子にはほとんど何も言わなかった父親が、唯一その息子に強く言い続けたことは「大学には行け」ということだった。彼はいつからかその「大学に行く」という約束を守ることが、自分がその家で寝泊まりし、生活する条件であり、その約束を反故にするときはこの家を出るときだと考えるようになる。
父親の、その唯一の言いつけに従うのは嫌だな、とは思っていた。だが、それを別にしても自分が大学に行きたいのか、あるいは行くべきなのか、行って何をするのか、といったことをその頃考えたという覚えが一切無い。きっと行く、行かないという以前に大学というものに興味が湧かなかったのだろう。結局、その後も大学という場所には一切縁がなく、そこが一体何をする場所で、その敷地の中で何が行われているのか、高校を卒業して十五年以上経つ今になってもよく知らないままだ。

高校に入学してからは、もうまったく学校の勉強というものをしなくなっていたから、親の手前、申し訳程度に受けた二、三の大学に合格することもなく、卒業した後は、横浜にあった大手の予備校に通うことになった。だが、それも一週間(だったと思うが)が限界だった。親のスネをかじり、そのことに何の疑問も持たないままだらだらと群れをなし無駄に時間をやり過ごす集団に自分が埋没してしまうのではという恐れに耐えられなかった。高校のときですら、学校を辞めようと真剣に考えたことは一度や二度ではなかったから、もともと予備校に通うことなど無理なことだったのだろう。
その後一ヶ月程、予備校に通うふりをしてその実ただ無目的にふらふらと街を徘徊した後、彼は父親に進学しない旨を告げる。激昂する父親を尻目に彼はその日のうちに家を出ることになる。予備校の授業料はほとんどドブに捨てたも同然のものになった。

家を出た後の生活については何も考えていなかった。いや、そのときはそれ相応に何か考えていたのかもしれないが、今となってはそのすべてが何も考えていなかったことを明かすだけの代物でしかない。なにしろそのときは、それまで高校のとき遊び程度にやっていたロックバンドを少しは真剣にやってみるかなどという馬鹿なことを考えていたのだから話しにならない。とはいえ、実際は歌も下手だったし、楽器を真面目に弾くのも面倒に思え、結局、ただその界隈を少しフラフラしただけで、何もしないままバンドをやるという考えは捨ててしまった。その僅かな時間にやったことといえば、酒の飲み方を覚えたこと、それと一つ、二つの出会いがあったということだけだった。

生活のためには働かなければならない。だから、高校を卒業した後、家を出てからはずっと働いてきた。とはいえそのあいま、あいまでぶらぶらとしていた時期も少なくはないのだけれど。

十代の終わりから、二十代のはじめは建設現場での日雇い仕事を続けていた。今、現場の状況がどうなっているのか知らないが、そのときはまだバブルの余韻があったせいか、短時間でそこそこの金をを稼げる仕事が建設現場にはあった(資材搬入の仕事)。そのときの仕事の感覚を言えば、朝、八時、九時から働いて昼飯を食わず、一時、二時に仕事を終えて一万円。稼ぎたいものはそこからまた会社に電話を入れ、次の現場に向かう。昼飯を食べて三時まで働けば、その日の仕事ははずれ仕事。五時まで働いたら、すいません疲れたんで明日休みます、といった調子だった。
その仕事をしているときは、時間はあったし、暮らせるだけのお金もあったから居心地は悪くなかったのだと思う。仕事は体力仕事だったから、若い連中がほとんどだった、二十代が主で、せいぜいいっても三十代前半という仲間の中で私は一番年下の部類だった。マンションの一室に事務机を付き合わせただけの会社で仕事を回していた連中もついこないだまでは現場で働いていた若い者に過ぎなかった。今、考えれば裏では金だけ出して私腹を肥やしていた輩がいたのだろうと思うが、そのときはそんないい加減な組織形態の風通しのよさを感じるだけであとは何も考えなかった。
時間の融通がきき、うるさいこともいわれず、服装も自由となればわけのわからない連中が仕事場には集まってくる。バンドをやるやつ、写真を撮るやつ、演劇をやるやつ、元ボクサーのランキング二位という人もいたし、相撲取りだったというものもいた。寺の息子だからといって修行坊主のような格好で現場に来ていたやつもいたがあれは一体何だったのだろう?
そして自分もまたそのわけのわからない連中の中の一人だった。

仕事が終われば、現場で一緒になった連中と昼間から酒を飲み話し込む。あるいは何もなければそのままアパートに戻り、本を読み、音楽を聴き、といった毎日。
その後聞いたところではその会社は潰れたらしい(あるいは他所の会社に吸収されたと言ったか?)バブルの恩恵と言ってしまえばそれまでだが、そこで過ごした時間はそれなりに楽しいものではあった。

書くこと、を意識しはじめたのは丁度その頃だった。別に書きたいと欲望したわけではなかった。むしろ書くことを意識した後でも、書くこと以外にもっとましなことはできないかという思いはいつも心の片隅にあった。だが、結局書くこと以外にこれといって自分に出来ることも見つからぬまま今に至る。最近では、もっとましなこと、を夢想することもなくなった。だがそれは、あきらめた、ということとは少し違う。自分のなかで、何をやるか、はあまり問題ではなくなったというべきなのだろうと思う。

もちろん書くことが自分に出来ることなのか、あるいは外から眺めて、まともに書けているのかということはまた別な問題だ。不思議なことに、というか能天気な限りというべきか、書くことを意識するのは結構だが、それを意識した当初から、自分に書くことができるのか?、という問いがすっぽり抜け落ちていた、とまでは言わないが、そのことを考えることがほとんどなかった。実際、自ら書いた言葉に満足することはほとんどなく、そのことで気分が沈むこともしばしばだが、その度に、まあ、違ったやり方を考えてみるかと思い、再び書き始めるのが、書くこと、の常だった。そんな風にして今もこうしてことばを綴っていることに変わりはない。
当然、こうしていつまでも書き続けていられるという保証はなく、また生活の中でいつまでも書くことが有効であるとも言えない。そのときはただ書くことを止めるだけなのだが、仮にそんなときが来るとして、そのとき書くことへの執着を容易く断ち切ることができるだろうか? 

書くことを意識した時、書くことを職業にするという考えはやはりあった。そしてそれから十五年以上たった今、自分の書いたことばで金を稼ぐと言う経験が一度もないまま、この場所にいる。(06/08/27)