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交渉について

来週から仕事(弁当屋)の時間帯が変わる。今までは朝の五時半から昼の三時頃まで働いていたが、これからは八時~十七時といった時間になる。仕事の内容もいくらか変わり、仕事への関わり方もいくらか変わるだろう。
この変更は自分で希望したものだ。労働時間がいくらか短くなり、時間帯による単価がいくらか下がるから、収入が若干減ることになる。そのための対策は何かしら考えなければならないだろう。
ともあれ、この区切りで自分の生活が若干でも軌道修正できればいいと思うし、今までの問題点を少しでもクリアできればと考えている。
手こずっていたwebpageの制作は九月の中頃で区切りをつけた。そのwebpageも、今、書いているこの文章を上げることで本格的に始動する。とはいえ本格的といっても更新は月に一回の予定だし、そこでやることは今までブログでやっていたことと基本的には変わらない。やりながらページの細かい部分も修正していきたいと思っているが、さて、どうなるか。
後は、去年の春頃から書きはじめて、この半年程ほったらかしていた物語のほうをまた書き始めようと思っている。ここまで百二十枚ほど書いたか。少しスピードを上げて今年中には書き切りたいと思っているのだが、これもあまりあてにはならないだろう。
これが今の手持ちの札。後はその合間、合間で自らが動いていかなければならない。そうして道から逸れて行く、逸脱のために身体を開いておく。

別にそう長い時間コンピューターの画面を眺めているわけではないが、それでもいくつかの気になるニュースは目に飛び込んでくる。北朝鮮の核実験のニュースとほぼ同時期に、アメリカが高性能のミサイルを沖縄に運び込もうとして住民の反対にあっているとか、ロシアで体制の批判を行っていたジャーナリストが殺されたとか、イラクでの死者は六十五万人にもなるという研究結果がありそれに対して大統領は相変わらず、知らねえ、信じねえとコメントしたとか、後はタイのクーダターとか、日の丸、君が代強制は違法との判決が出たとか(これも例の都知事は相変わらず、ふざけんな、わかってねえ、とコメントしたとか)、沖縄で基地反対運動をする住民が公務執行妨害で逮捕とか、朝鮮学校に悪質な嫌がらせの被害が増えているとか。
別にこっちもそのひとつひとつのニュースに反応し、感情を昂らせているわけではない。コンピュータの画面を眺めている限りは、ただ、情報としての言葉をなぞっているだけだから、それで何かを知った気になるというのもおかしなことだろう。
それでも、もうかなり以前から張り出している厚く暗い雲は、いまだ晴れることなく空を覆い、その下に自分の生活があるというぐらいのことは思ってもいいのかもしれない。
とはいえ、仕事場の休憩室で朝も早くから若い女が、ニューヨークの高層マンションに小型の飛行機が激突した、テロの可能性は低い(ということはただの事故か)とそれを臨時ニュース扱いで何度も何度も繰り返し喚いているのを見れば、オマエらはアメリカの犬かとテレビに向かって悪態のひとつもつきたくはなる。

核の武装、それに対する制裁、軍事攻撃。
正しさ、とはいったい何なのだろう。
自分が正しければ他人に何をしてもいいのか。
武装、制裁の悪循環は自滅への道だということを、お互いいくら馬鹿でも、いい加減現実から学んだ方がいい。
いつだって必要なのは交渉だ。
それはさんざんやってきたんだ、と彼らはいう。自らの責任逃れのために。お上の決定事項を伝書鳩のごとく運ぶだけで何が交渉なのか。
交渉はいまだ何も決まってはいない現実を動かすからこそ交渉の名に値する。
だが彼らのやっていることは現実はこうあってほしいという自らの願望を相手の前で棒読みすることがせいぜいだ。もう政治という場に、人と人が話し交渉するという場所は残されていないのかもしれない。硬直化した官僚主義とそれに伴う大掛かりなセレモニーが、外交の名の下にただ虚しく繰り返される。大きくなりすぎたシステムを背負うことなど誰にもできはしない。
結局、政治にできることなどほんの一部のことでしかない、ということになるのか。
そのほんの一部のことで世界が破滅してしまうとしても。
近い将来、また戦争がはじまるのだろうか?

交渉はどんな場面に置いても難しい仕事だ。結果は常に保証されず、経験の蓄積は奢りと表裏一体の関係にある。
他人はいつだって自分の思うように動かない、答えてくれない。
そんな現場であらかじめ言葉を用意することは無意味であるだけでなく、
用意された言葉はむしろ邪魔にすらなるだろう。
さらに交渉の場は決してお互いを対等な立場に置かない。それは常に非対称的な関係なのだ。そこではお互いそれぞれの考えを言い合う、などという甘ったれたことは言っていられないだろう。お互いが対等(同一)であるという微温的な温室の中ではじめてそれぞれの考えを尊重するなどという戯言を唱えられる。
現実はいまだ何も決められてはいない。その不安定な闇に向けて恐る恐る言葉を投げかけてみる。いくらかでも相手の息づかいを感じることができるか?

その不安定さは創造の糧だ。だが人はその不安定さに耐えられない。あるものは組織に跪き、あるものは権威に閉じこもり、あるものはヒステリックに暴力を行使する。

市場を巧みに渡り歩く、ペルシャや古代ギリシャの商人達。
市場はどこにでもある。現実を嘆く暇があったら、人と会い、話してみることだ。
そんな小さな運動だけが現実を動かす。(10/16/2006)