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覚めた眼

 

この二百年くらいなのか、たしかに西洋は世界の中心だったのだろう。だが、今はもう違う。今は、その中心であった国々が雪崩うって没落していく様を我々は見せられている。嘘と諜報と圧倒的な暴力でその没落を食い止めようとはするが、この流れが変わることは多分ないだろう。もちろん、その没落とともに世界が壊滅的な被害を受ける可能性は高い。 このあと、中心になる国々がそれを食い止めるということもないだろう。我々はすでに中心のない世界で生きている。そんな世界の中で、生活は続く。

集中して作業をしている、といえば聞こえはいいが、それが没頭、没入するというところまでいってしまうのは問題ではないだろうか。没頭して書く、あるいは描く、聴く、観る、演奏する。それは果たして望むべき姿勢でなのだろうか。

一点だけを凝視して、他のものは何も目に入らず、回りの音や声はまったく聞こえない。例えば電子ゲームなどをやっているときにはこんな状態になるのではないだろうか。あるいはコンサートで熱狂する若者たち(最近は熱狂するのは若者だけではないのか、ロックもすっかり中年の音楽になっているようだし)などは外からの声などまったく聞くことはないだろう。没入できない音楽は彼らにとってはつまらない音楽ということになるのだろう。
逆に聴衆ではなく音楽をやっている側はどうなのか。案外、引いた視線で演奏は行われているのか。そうだとするとその引いた視線と、没入する観客との関係はどうなるのだろう?
 
一歩引いて、全体を眺め、聞こえる音、聞こえてくる音のすべてを聞く。自分の内側の声を聞くのでなく、外からの声を招き入れる。これは没頭、没入している状態とは違ったあり方だ。
例えば日常の単純な作業の繰り返しの中で、ことばが紛れ込んでくることがある。結論も整合性も求められぬまま、ただ思い思いのことばが浮かんでは消えていく。
車を運転しているときなど、そんな状態になることが多いが、それでも身体は意識されることなくハンドルを切り、車は角を曲がり、道を進む。その逆に浮かんできたことばに捉われて、考えはじめてしまうことがある。考えに捉われ没頭し、挙句に道を間違える。考え事をしてまして、という誰もが覚えのあるだろう、あれだ。なかなか、捉われず、没頭せずというのは難しい。今だって、書いていることばに引きずられ、書くことに没頭してはいないだろうか?

日常の中で身体を動かしているときにはふっとことばが紛れ込んでくることは多いのに、いざ、何か書こうなどと思ってパソコンを開いてみると途端にことばは消え去り、手は動かなくなる。それでネットを開いて、下らない動画を見たりするが、これがまずい。これでは書くことの沈黙に耐えられず、他の何かでその沈黙を埋めることになってしまう。
そんなときは何もせず、ぼんやりと外でも眺められればいいが、夜だと外を眺めても何も見えないし、何より部屋の机からは窓が見えない。
なんとなくここまで書かれたことばを読み返して、ノートの余白に落書きでもしながら、また次の道を探る。

今、人は没頭し、没入したいのだろうと思う。外からの声を拒絶して自分の見たいものだけを凝視する。そんな姿勢に固執するのは外からの声に、見たくない現実を見せられることを知っているからなのか。没頭し、没入できる物語が好まれ、回りを遮断できる音が求められるのも故なしではない。
人の意識の外側で、世界は、自然は動いている。外からの声や音を無視するなら人間の方が狂い、壊れていくのも別に不思議ではない。没落していく狂った文明の中で、せめて正気を保っていたいとは思う。それには一点を見つめ、没頭することなく、あるいはことばに引きずられないように、何度でもはじめにもどってやりなおすこと。
書く、なんてそう長い時間続ける必要はないのかもしれない。
切れ切れで、その都度はじめられ、綴られることばの集積が乱反射する。
もう夏も終わりそう、今月はここまで。