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戻るAIに自分の書いた文章を読ませて感想を問うたらあまりにもっともらしいことばが返ってきたので気持ちが悪かった。お世辞、というのを通り越しておべんちゃら、という感じだったが、それは今の若い人達と話しているときの感覚と似ているのかもしれない。いや、そんなことはないか。話している感じなど人それぞれ違うわけで、若い人、と一括りなどできはしない。とはいえ、今問題なのは人間を模倣して作られたはずのAIを今や人間の方で模倣しているということだろう。この不安定で不確かな世界に耐えられず、単純さに逃げ込む人間の心性は、単純さは単純さのままで、その精度を上げればそれでよいという言い訳を思い付き、その思い付きの果てに今のAI技術がある。自分たちの思い付きで出来上がったロボットを今や崇めたてているわけだ。まあ、やってる感、を出して富を独占する言い訳にしたいのだろう。
世界は依然として悪い流れのままだ。
自分の言葉に対するAIのもっともらしい返答を読むだけで、AIには創造性を繰り込むことができないのだとわかる。AIは言葉を字義通りに読む。言葉からのズレ、飛躍がそこにはない。ただ正しいことを言うやつがつまらないと感じるあの感触がAIの返答にはある。それが人間なら、あまりに字義通りにしか動けない人間はその繰り返しの中でユーモアを帯びることもあるかもしれないけど、機械相手にそんな感情も湧かない。AIという存在自体が滑稽であるとは言えるのだろうけれど…
インターネットが普及したときにはそこに革命を夢見る言説もあったが、AIの普及にはそんな牧歌的なことばもあまり語られないようだ。過度に距離を取る必要もないとは思うが、学習や翻訳はAIを活用し、創造を担うのは人間がやればよい、というのもあまりに単純で都合のいい話のような気がする。人間の方で既に創造を必要としない、と言っているひともいたが、創造を忘れた社会がそのまま生き続けることができるのだろうか?
創造とはなんだろう? 創造とは間違えであり、ズレであり、些細な言い間違いだったり。今の右肩上がりのテクノロジーの進歩を創造が生み出し、支えていると考えるのは違うのだはないだろうか。大谷翔平と同じように動けるロボットはいずれ作られるのかもしれないし、人類を負かすスポーツ集団も作り上げることはできるかもしれない。しかし、そうなったところでそのときには、だからどうした? ということになるだけではないのか?
結局、その行き着く果てが空虚な戦争技術の向上でしかないとしたら? 今の、より早くより大きくより強く遠くへといった進歩の中にきっと創造の入り込む隙間はないだろう。今や進歩もまた予定調和に繰り込まれてしまった。では今、必要な創造はどこにあるか。
AIが新しい言葉を生み出すことはないだろう。人工知能は言葉の余白を読めない。では言葉の余白とは何なのか? 言葉のズレを先導する動きがある。声、手の動き、熱 息 触れる感触 言葉のまわりにあるそれらのものを見ないで、ただ言葉を巡って醜い争いをいつまでも続けている。
手の動きに沿って言葉を書くということ。意味から離れて、かといって当てずっぽうというのでもなく、手が動いてく。
言葉などすべてが例えに過ぎない。これも私の言葉ではない。かといって他人の言葉をなぞっているというのも違うようだ。他人の言葉を書き写しても、気の抜けた炭酸を口に含んでいるようで、最近はやらなくなった。魂はそこには宿らないようだ。ただ身体を動かしながらここまでやってきた。何かやり方が変わったというわけではない。変化にはいつも拘っていたはずだ。拘っているあいだは変化が訪れることがなかった、というのもひとつの側面でしかない。コンピューターの画面を眺めているとつい文字を追うことに気を取られて、つまりは言葉に捉われてそこから出てこれなくなるのだが、それはこうして紙にペンで文字を書きつけているときも同じで、次に何を書こうか考えたりしているとつい手の動きを忘れてことばの線を延ばそうとしてしまう。あるいはそれでもよいのか。その言葉の線が続く限り手は動き続けて、それが途切れたらそれで終わり、またはじめからやり直す。だがこれだと言葉の線が先にあって手はただその線を追いかけて動いているということになる。ではその言葉の線がかたどっているものは何なのか。頭が、脳が言葉を考えるのか。手より先に?
そう長い時間書き続けることはない。せいぜい一日一時間やればいい方か。後は諸々日常の雑事に時間を費やしていく。掃除や洗濯、買い物や道具の手入れ、など。最近は行き場もなくなった。必要は狭まり、行けるところも少なくなり、行きたいと思うこともなくなってきた。それでいい、とも思う。小さく小さく、内側の動きを探っている。探ると言ってもただやってみるだけ。手を見るには手を動かさなければならない。そのための言葉、それだけの。それだけであるということを示すために虚構が必要とされる。これはあくまでも例えなのだとしめすために。意味が通じないことより、意味が通じてしまうことが問題だ。まあ、結局は同じこと。意味はないという意味に囲われてしまうなら。もう一度、もう一度と何度もやり直してみる。疲れるまで。飽きたら道具を片づけてトボトボといえに帰っていく。という物語。(2026.05.05)