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戻るもちろん、書きたいことなど何もなかった。
なかった、とはなんだろう? 過去の話し、ということか。いや、過去の話しなどではない。今、現在、これを書いている今でも進行中の事態だ。こうして書いているあいだも、書きたいこと、書くべきことなど何もないのだ。それでもこうして文字を書きつけていられるという不思議。フシギ? それは果たして不思議なことだろうか? 人は案外何を書くのかわからないまま書き、わからないまま喋っているのではないのか。だがそれは当てずっぽうに書き、喋っているというわけでもないだろう。ただ手を動かしている、手を動かすために書いている。動かすため、というのが言い過ぎなら、書きながら手の動きを見ている、手の動きを感じているとしようか。
何も書かない、ただ手を動かしているだけ。言葉に意味を求めず。書かれた言葉の良し悪しを判断しない。だれが言葉について判断するのか? 誰もわからぬまま話し、わからぬまま答えている。わかったような振りをして、実際、わかったような気にもなって。
相手から何かが伝わる。それでもまた、そのことを忘れて、また一からはじめていく。生きるとはそんなことの繰り返し。あとどれだけ生きられるか、まだもう少し生きていられる気ではいるが、そんなに長く生きていたいという気はなく、死を恐れることもない。
死ぬことは容易くない。誰もが多かれ少なかれ、痛みの中で苦しんで死んでいく。痩せ細り、食べることもできなくなり、糞尿を垂れ流しながら。誰も一人では死んでいけない。回りの人の手を借りながら、人はようやく灰になる、土に還る。今はもうそんな風にやるしかない。そのことに目を向けない。他人の死を見ようともしない。恐れから。なんと情けない態度だろう。
ここ数年、近親者の死にゆく様を見てきた。人が死ぬとはつまりそういうことで、これでいいのだと妙に納得したのだった。自分もそう遠くない未来に、痩せ細り、身動きが取れなくなる。死ぬとはそういうことだ。そんな姿を惨めだと父はいった。しかし、惨めなのはどっちなのか? これでは長年そりが合わないのも致し方ないことだ。別に今更戦う気など起きない。いつまでも自分は父であり、相手が子であるという固定的な関係を前提としなければ物も言えない。もうこれ以上の何かを望むべくもないのだ。
家族との関係の中で自分が出来上がる、というよりその関係に規定されるということには早めに気づくべきだろう。いつまでもそのことに気づかないという人は少なくないし、そんな関係に規定されることなどない、と若いときにはいきがって思っていたが、そのことの根の深さに最近になって驚くということがあった。
家族とは恐ろしい。誰もがその関係の中で、とりあえず自分になるほかない。家族でない、何か違う人とのつながり方があっていいとは思うが、それだって自分で選ぶことのできない関係の中で、自分になる他ないわけだから、生まれることの恐ろしさが消えるわけでもない。
自分を疑うことができるか? それは決して易しいことではないし、危険が伴うことでもある。それでも、誰にでも課された問いではある。
考えない。考える前に手を動かすこと。意味の枝分かれではなく、飛躍やズレが重要だ。それをいかに招き入れるか。とりあえず書いてみる。どうやって? 物語を利用するというのはどうだろう? 物語に忠実である必要はないが、とりあえずのはじまりとしては有効なのかもしれない。
あるいはそんなこともしないで、極々個人的なことからはじめればいいのかもしれない。一行書き、また次の一行を考える、というのは違う気がする。あるかたまりがあり、言葉の糸が途切れるまで書き続ける。手が止まればそこまで。またはじめからやり直す。そんなことの繰り返しで、断片が積み重なっていく。意味は追わない。そこに横たわる流れが感じられればそれでいい。(2026.06.27)