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乾いた季節

最近はずっと小説を書いていた。このページの更新が昨年の十一月から止まっているが、多分、その頃からはじめて、つい最近まで小説を書いていたのだと思う。思い返してみて、いつのまにか年が変わっているのだなと感じる。昨年はこのページに四本の文章しか上げていない。ここに文章を上げなかった理由は何だったのだろう? と他人事のように思う。過去に書いた文章を読み返せば、そのときの自分の様子も少しはわかるのかもしれないが、今は読み返すことはしないままこの文章を書き始めている。

小説を書いていたといっても、去年の暮れから急に書きはじめたというわけではなく、もう何年もの間、書いては止め、またしばらくしては読み返し、書き継ぐという作業を続けてきた。ある程度分量がたまったところで、これを最後まで書き切ろうと決めてこの数か月は作業を続けてきた。当然書くことを生業にしているわけではないから、書くことに割ける時間は多くはない。普段の日はせいぜい一、二時間、休みの日も他にやることはあるから、三時間もやれば、ああ、疲れたといった程度だろうか。今の生活の中ではそれで充分。書くことは生活の一部でしかないし、逆に言うと書くことが生活の一部になっていたとも言えるか。そんなものは趣味か、慰み、癒しでしかないと言う人もいるだろう。そう言われてしまうのは仕方ないとしても、本人の意識としては趣味や癒しではなく、修行、というぐらいの思いはあるのだが。

書き切る、と言っても何か壮大な結論や結末に辿りつくということはなく、そこに偉大なる形象が立ち上がってくる、ということもない。終わりはとりあえずの区切りでしかなく、そう割り切ってしまえば逆に区切りをつけることも大事だとも思える。いつまでもダラダラとやっていたも仕方がないし、進歩もない。区切りをつけることで振り返る時間ができることも悪くないだろう。今来た道を辿り直して、また別の道を探っていく。ぐっと息をつめて坂を上り切ることで違う景色も見えるかもしれない。

小説、ということばにそれほど大それた意味を込めているつもりもない。作り話、虚構といった程度のこと。それを物語、と言っていた時期もあったけど、物語というとストーリー、筋書きといったイメージがまとわりつきそれもイヤだなと思って、今は小説と言ってみる。大説に対する小説、小さな話し、虚構の話しというだけのこと。ことばなんてすべて虚構なんだから、別になんと呼んでもかまわないわけで…。

ただ自分のために書いている。最近は益々そんな風に思っている。書くこと、つまりは手を動かすことには何かがあるのでは、と感じているが、では読むことはどうだろうか? ことばは他人に晒されるべきだとは思うが、それはあくまでも″他人″に晒されることであって、自分で読み返してみてもそこに何が書かれているのかよくわからないし、もちろんその言葉の良し悪しなど判断できぬまま、ただ書き続けるほかない。結局、書かれた言葉はどこまでいっても他人のもの。読み返してできることは誤字脱字を直すか、まどろっこしい言い回しを直すかするだけ。パソコンが普及して編集がし易くなったという人もいるが、パソコンの画面を眺め、言葉の並べ替えをはじめると途端に収集がつかなくなる。言葉の裏側で持続している動きを見ないなら、言葉は糸の切れた凧のようにどこかに飛んでいってしまう。

意味に頼らず言葉を紡ぐことはできるのだろうか? ただ手を動かすために言葉を利用する。いや、手の動きを頼りに言葉を書くのか。書かれた文字から手の動きを感じられるのだろうか? そのときそれを感じさせるものは何か、言葉が記号であることから逃れられないなら、一つ一つの言葉はシンプルに、その積み重ねの中で意味を拡散させる。意志の蒸発した記号の連なりの合間で動いていたはずの身体が透けて見える、というのも都合のいい解釈ではないのだろうか?

この辺りが今の限界だろうか。わかっていることと、いないことの境目。ここから無理に結論は出さず、また書くことの実践の中で道を探る。(2026.04.19)