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資本主義からの出口、あるいは入り口

今、何が問題になっているのか?
もちろん、資本主義が問題になっている。
社会主義の夢が潰えた後で、誰も資本主義の暴走を止められないままでいる。
それまでだって、社会主義と言う確固たるやり方が確立されていたわけではない。社会主義もまた違うタイプの資本主義でしかなかった。冷戦の崩壊とは、あるタイプの資本主義が潰えて違うそれとは違うタイプの資本主義が残ったというだけのこと。

資本主義の何が問題なのか? 資本主義は格差を生む。持つものと持たざるものの格差。
いや、格差を生む、という以前にすでにそこには資本家と労働者という主従関係が存在している。その主従関係をそのままに何をやっても、根本的な格差が(差別が)解消されることはない。

組織に属して働くものは、経営者から賃金を貰い受け仕事をこなしていく。いわゆる賃労働というやつだ。建前上は労働に対する対価として賃金が支払われる。経営者は労働者から労働力を買う。だがこれは事実の半分でしかない。
経営者は労働者への賃金を人件費として把握する。経営者は人件費の増減に過敏に反応を示すが、その人件費が労働者の間でどう分配されようが基本的に興味を持たない。経営者にとって人件費は必要経費の一部でしかなく、個々の人格など本性的に興味がないのだ。賃労働とは現代におけるソフトな奴隷制度に過ぎない。この奴隷制度を破棄しない限り、資本主義が生み出す問題が解消されることはないだろう。
では、どうするか?

今、目の前にある主従関係がなくならないなら、せめて奴隷になるより主人になるほうがよいと人は考える。組織を離れて個人で事業を営むものは多いがそのほとんどが”小さな資本家”に成り下がる。今はどこを見渡しても、チンケな小悪党ような輩ばかりが目につく。奴隷の分際で資本家の言い草を代弁したがるようなやつもいる。それの誰も彼もが、自分は小さくとも資本家でありたい、という欲望に立脚し、動かされている。富めるか貧するか、人を使うか人に使われるか、他人をいじめるかいじめられるか、というような構図がなくならないなら、自分は富める側に立ち、他人をこき使い、いじめ倒すほうがよいと考えるこのさもしい品性。問題はどちらの側に立つかではなく、この主従関係それ自体を破棄することではないのか?

この主従関係をなくすことは別に難しいことではない。労働力を売る、あるいは必要経費としての人件費という発想を止めて、ひとつの仕事をみんなで協力して行い、上がった利益をみんなで分配すればそれでよい。
ただこれだけのことで何が変わるか、何を変えるべきか。

上がった利益はみんなのもの、だからみんなで分配する。で、あるなら仕事もまた「みんなの仕事」でなければならない。ここに「私の仕事」はなく、「私の仕事」を手伝うその他大勢も存在しない。
一生懸命やろうが、手を抜こうが一日の日当は変わらないという賃労働はなくなり、自分の労働の在り方がそのままみんなの利益に直結する仕事への変換。まずこれだけで日々の労働の意味は変わる。
その場のリーダー、責任者は必要になるだろう。なんなら責任を重く担う者への分配は増えるべきなのかもしれない。だがそれはあくまでも「みんなの仕事」の責任者であり、責任者=仕事の所有者=「私の仕事」、という等式は成り立たない。責任者とはあくまでもひとつのポジションであり、階層の違いではない。
分配の在り方は個々の集団で考えられていい。百万上がった利益を、すべての仲間で同じ額分配する必要はない。そこには仕事量の差があるだろうし、割いた時間の差もあるだろう。なんなら家庭の事情も考慮されるべきなのかもしれない。受け取る額はその時々で違ってくる。その諸々が勘案されるべき合議の場がそこには必要になるだろう。その合議の場が主従関係を破棄する第一歩だ。

そう、これは確かに資本主義を抜け出すための、ただの一歩に過ぎない。
だがこのまま現行のシステムが音を立てて崩れ落ちていくのを見ているだけなのが嫌なら、踏み出すべき一歩には成りうるだろう。

身近で見て取れる主従関係抜きの分配の例は、映画などでよくある悪党集団のやり方だろう。昔の映画に出てくるような仲間同士で悪事を企みその成果を山分けするという例のあれだ。その企みが、いかに倫理に反する行為であっても、少なくともその分配のやり方に資本制に巣食う主従関係はない。
多くの映画の中では、その取り分の山分けをめぐって仲間割れが起き、それがストーリーの展開につながっていくことが多い。そして現実においても分配をめぐっての揉め事の可能性は常につきまとうだろう。資本主義的な主従関係を破棄したところでバラ色の未来がただちに開けるわけではない。
むしろ、それまでの主従関係に慣れた身体でそのまま平等な分配をうたったところで、事態は以前より悪くなり、これなら資本主義のほうが良かった、ということにもなりかねない。
さらに言えば、今、平等な分配を実現しているのは他でもない資本家の側なのだ。上がった利益を分配した後で、今年の報酬などといって経営陣が莫大な金額の金を発表するのを聞いたことがあるだろう。よく恥ずかしげもなくそんな大金を懐に入れるものだと思うが、それはつまり彼ら彼女らは、「私の組織」の「私の仕事」が生んだ利益を自分たちだけで山分けして何が悪いと思っているのだろう。そこに多少の不平等感があっても、その金額の多さのせいで仲間割れや揉め事もあまり起こらないようだ。
さらに資本家たちは世界的なネットワークを形成してもいる。そのつながりの強さたるや、横断的労働組合などの比ではない。公平な分配と横への連帯を実現しているのが実は資本家の側であるというのは些か皮肉な話しではある。もちろん、その公平と連帯の外では巨大な搾取と差別が日々行われているわけだが。(つづく)(2025.11.15)