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物語をこえて

言葉について考えてみる。
で、どうやって? 言葉について言葉で考える? そんなことが可能なのだろうか?
言葉が何たるかをわからなくとも、こうして文字を書きつけることはできる。
言葉は意味を表す記号である、といってみよう。しかし、言葉は意味を表す記号である、という言葉の意味はなんだろう。言葉の意味を知ろうと辞書を引いてもそこに出てくるのは違った言葉、言い換えられた言葉。言葉を追っても言葉を追い越すことはできず、意味、なるものの実体を見たものは誰もいない。

それでも、目に見えないからといって、それが存在しないとはいえない。空気、音、最近騒いだウィルス、細菌、重力、原子、とまあ目に見えず、存在が確認されているものは色々ある。
確かに意味を理解した、という感覚(錯覚)がある。言葉を理解し納得する、あるいは何かが伝わったという感触。
何かを理解し、納得し、それが伝わったと感じるとして、その何かを意味という言葉で片づけてしまうのはあまりに単純に過ぎないか? 伝わるものが意味以外の何かであるとしたらどうだろう。あるいは意味に先立って伝わるものがあるとしたら。
言葉の意味がわからなくとも、理解できることもあるだろう。直接対面する場であるなら相手の身振りや表情があり、声が聞こえてくる。そのすべてを記号として捉えるという振る舞いが止められないとしても、そこには意味に先行する感触がないだろうか?

今、こうして文字を書きつける手の感触がある。その感触に従って、ということがあるのかよくわからないが、万年筆が紙に書きつける感覚や、書きつける音、ペン先の角度や力の入れ具合を色々試しながら、文字を書く手は動いていく。

物語を書き継いでいれば、時折まとめて読み返す必要が出てくるが、この読み返しの作業がなかなか上手く使えないでいる。この作業をどう考えたらいいのだろう? 何を書いていたか忘れて、あるいは書いているうちにわからなくなって、今、いる場所を確認するように読み返してみるが、その確認も徒労に終わることが多い。言葉の意味を追っても(ましてや自分の書いた言葉の)ただ迷宮にはまっていくだけのような気がする。それよりはことばの流れ、リズム、そんなものを感じてまた再び書きはじめる地点を探れればそれでよいと思うのだが、ついつい言葉につられて書き直す方向に向かい、さらなる迷宮にハマっててしまう。
書き継ぐ場所を探すというのは、それまでの言葉の先を見つけるのでなく、これまで書かれたことを確認して、それ以外の何もない場所に立つ、といったことだろうか。適当に見切りをつけて、さっさと手を動かしたほうが早い、ということか。

中上健次の物語への拘りが気になっている。物語の原型、原初の物語といったことを中上は何度も繰り返し語っていた。そんな中上の物語への拘りと並行して、物語とは定型であり、構造であるといったことは言われていたし、それに基づいた物語批判というものも盛んに行われていた。そのことを理解した上で、それでも中上が拘った物語、あるいはその原型というのは何だったのだろうか?
物語をなぞり、トレースすることでそれを超える感触を中上は持っていただろうか? あるいは単に物語をなぞることの失敗も感じていたのかもしれない(「異族」とか)
そんな中上が考えうる物語を越える感触、あるいはことばを越える感覚とは何? 
そう考えるときあの集計用紙に書きつけられた中上の手書きの文字が思い浮かぶ。その文字から想起されるリズムと時間。物語を駆動させているのが物語への欲望でないとしたら。物語はその都度物語を裏切り、また違った物語を重ねていく。それは同じことの繰り返しとは言えず、あるいは違うものともいえないことばの連なり。手の動きが言葉の意味を食い破っていくように、物語は中断され、逸脱しながらも、再び折り重なっていく。物語のはじまりは、今、ここにある。近道はない。手を動かす。その中の小さな動きを感じながら。(2025.07.10)