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戻るこの一年くらい、毎日日記を書いている。ほんの短いコメント程度の文章だが、一年という期間、日記というものが続いているのは、ここまで生きてきて初めてのことだ。
これまで何度か日記でも書いてみるかと思いついて、それを試みたことはあった。今まではそれが一月と続くことはなかった。書きはじめても、何が楽しくてその日の出来事を振り返りそれを言語化しなければならないのかと、すぐに飽きてしまいすぐに投げ出してしまう。それとは別に自分用のノートに思い付きの言葉を書きつけるということはしていたが、それと別に日記という形式で文章を書く意義も今までは見いだせなかった。
最近、日記を書くことが続いているのは、幾分意識が変わったからだ。書くことは何でもよい、ともかく手を動かすこと、そう考えると日記という形態は、手を動かすことの準備体操のような感じで使えるのではと思うようになる。自分用のノートだと、思いつきがなければ書きはじめられず、思いつきがないときには他人の文章を書き写すようなことをしていたが、何となくそれでは満足できなくなっていく。その点日記なら、思い付きがなくとも適当にことばをでっち上げられるし、他人の文章を書き写すよりおもしろい気がしてやってみたのがことのはじまりだった。
書かれることばは何でもよかったし、それまでノートに書いていたような思いつきのことばもそのまま日記に書きつければいい。そうやってここまで日記を書くことは続き、この一年は自分用のノートの方が日記の中に溶け込んでいった。
手を動かす準備体操と称して日記という名のノートを書き、その準備の後で何を書くかと言えば、今はまた少し長めの「物語」を書き継いでいる。これも一年くらい書き続けているだろうか? こちらは毎日というわけにはいかないのだが、書ける日には一日で四、五枚、進まないときには一枚、あるいは数行でやめてしまうときもある。
そんな風に断続的に続けている「物語」だが、年が明けて一か月は色々、雑事が重なり、その間に体調を崩したりしていたせいですっかり停滞しているのだが、そろそろまた再開しなければとは思っている。「物語」といっても大した筋があるわけではなく、ただ断片が積み重なっていくといった具合だから、少し中断をはさんだところでまたそこからはじめることはできる。今までも何度か中断した時期はあって、その都度また読み直し、そこからとりあえずの続きをはじめてきたから、今回もまたそんな風に中断された物語は続いていくだろう。
それでもどこかで頃合いをつけて終わりにすることも必要か。やっと二百枚くらい、もうこの辺が区切りの時期かもしれないが………。
日記という準備があり、物語という本番があるいうのは書くことの手順としてはその通りなのだが、かいていることは本番と呼ぶほど大それたものではなく、物語もまた日記やノートの延長でしかない。
「物語」と呼ぶことでいくらか自分に制約をかけている部分はある。制約があってこそ書ける言葉があるか、制約があることで感じられる自由はあるか、あるいは制約がないことの自由を疑ってみるのか。今やっているのは、そんなことを思いながらの試みではある。
webの更新が滞っているのは、結局、その日記と物語を書くことで今は手一杯だし、それ以上書くことの必要も最近は感じられなくなっていたから。
多少は他人の目に触れる努力はするかと思って自分でホームページを作ったが、ただ作っただけでは人の目に触れることはない。身近なところからわずかでも広がっていくというのがいいとは思うが、生憎、回りにことばを必要としている人がいない。結局そのまま、ただ自分が手を動かすことで今はこと足りてしまっている。もちろん読まれたいという欲望は人並みにあると思うが、その欲望と、手を動かすことは、まったく別のことのように最近は感じている。
ここまでで原稿用紙四枚くらいか。ノルマの五枚には届いてないが、これぐらい手を動かしていると、なんとなく自分の中で開けていくものがある。
本当はちまちまと文字を書くことなどより、絵を描いたり、声を出したり、楽器を演奏したりの方が、身体の感触を感じることができるのかもしれないが、そんな才能に恵まれなかったものとしては、小さく書くことくらいで代用するしかないか。この開かれる感触は、身体的充足などとは違うのだと思う。運動したり、汗を流してすっきりしたりといった感覚とは違う、もっと覚めるような感覚。
この開かれた感覚を頼りに、情報という刺激から離れていく。(2025.02.05)