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戻るすっかり更新が滞ってしまった。
特に書くこともなく、誰からか頼まれているわけでもなく、その上、この二、三週間パソコンの調子も悪かったから、すっかりそのままにしてしまう。
とはいえ、ノートに思いつきのメモをしたり、長めの「物語」を気が向けば書き継いだりして、とりあえず、日々、手を動かしてはいる。
中上健次の文字が気になりながら、何となく彼のエッセイをパラパラと読み返してみる。どこかで実際の生原稿を見たいと思っているが、なかなかそれも叶わないままになっている。(彼の郷里の新宮の図書館で見れるようだが)
以前にも中上の文字については書いたような記憶もあるが、とりあえず繰り返しを厭わず今、思っていることを書いてみよう。
中上本人は原稿を書き上げることの、早さ、を繰り返し述べていたが、あのくねくねとした独自の線の連なりを見る限り、むしろその文字を記することの、遅さ、を思ってしまう。あの文字を見る限り、中上は一つ一つの線、一つ一つの字をかなりゆっくりと、まるで何かをなぞるように書きつけていたのではないだろうか。
丁寧に字を書く、というのとは違う、ただ無心に一つ一つの線を辿り、なぞっていく。シャーマンのように、あるいは半ば夢うつつとなって線を書き連ねていく。書くことでだんだんと、中上本人がシャーマンのようにと称するような状態になっていく。あの文字と相まって、線を辿る中上が向けていた視線の先が何となく想像できるような気がする。
中上は繰り返し、空洞について、それをうつほと言い換えたりしながら語っていた。そこに物語の原型を見たり、あるいは天皇制を語ったりもするわけだが、その手の解釈はあまり面白いとは思えない。むしろ中上が空洞に拘ったのは、それがそのまま書くときに感じられる、中上の身体感覚ではなかったか。「枯木灘」の中にはその空洞が主人公の身体感覚として繰り返し記されている。がらんどうのからだに響く、とか、体の中がただ穴のようにあいた自分、であるとか。これらのことばは主人公が肉体労働に従事し、実際に身体を動かす際に頻出することばではあるが、それはそのまま中上が、書く、ときの感覚であったとしたらどうだろ?
この何年かは、書くときには手書きで原稿用紙に書いている。必要に応じてそれをパソコンに起こすことになるが(例えばこのページに文章を上げるにもパソコンに移し、ファイルにしてあげる)それは書くこととは全く別の作業のように感じられる。実際、書き写すだけだから、ようは読み直し、修正する作業になる。読み直すことも書くことの一環とも言えるが、なんとなく手間にしか感じられず、なんなら他の誰かにやって欲しいような作業のようにも思える。
書くこととは、手を動かすことだとするなら、パソコンのキーボードを打つ際にも手は動いているわけなのだが、それではなかなか書いているという実感が湧いてこない。それだけでなく、パソコンの画像を見ているといつのまにかことばの並び変えに気を取られ、そのうちことばの迷宮にはまっていき、結局、最後まで書き切ることができない、ということを若いときには何度も繰り返していたような気がする。
書くことは手を動かすこと、とはっきり割り切ったのは比較的最近のことだ。似たようなことはずっと以前から考えていたはずなのに、今のように割り切れるようになったのはなぜだろう? まあ、些細なきっかけのようなことはあるのだが、それはまた違うときに書こう。ともかく、ただ、思うことと実際に身に染みて理解することは大きく違うようだ。今だって知った気になって何もわかっていない、というようなことが多くあるのだろう、とは思う。
書きたいことなど何もない。何も考えずただ手を動かせていられればそれでいい。
子供の頃は、身体を動かすことが好きだった。日常の中での煩わしいことから離れるために、誰もいない広場で、一人でボールを蹴っていた。
何も考えず、手を動かすことは可能だろうか? 何かを書くために手を動かすのではなく、手を動かすためにことばについて考える。
手を動かせれば、書かれることばなどどうでもいい、とも言えないようだ。書きつつ読む、というよりは手を動かしながらそこに記されることばの響きを聞いている。その響きに呼応するように手は動いているのだろうか?
物語の原初、あるいはその始原へ。だが、そう言っているだけなら、それはただの解釈に終わる。言葉の始原に声や唱歌を見出すこともさして目新しいことでもないだろう。
始原を何と称するかもさしたる問題ではない。というか、そもそも名づけること自体に問題があるのか。わからないことはわからないままに。名づけなくとも、それについて考えることはできるだろう。
そして考えることはまだ最初の段階。大事なのは自分で実際にやってみることだ。
何もない空間で。いや、そこにはまだ時間も空間もないのかもしれない。それでも、それは常人には到達できない神秘ではない。遠い古代に遡る必要もない、日常の中の今、ここ。今、ここと言葉に表される以前の手の動き。
物語とそれ以前にあったモノカタリ。いかようにも始原について考えることはできるが、その知的操作に安住している限り、終わりのない堂々巡りは続いていく。
音を実体として見出し、鑑賞するのではなく、手が動くかたわらに音がある。そこに自分もあるとき心は次第に澄んでいく。どこを見るでもない視線が闇を見据えていることに気づく。その静寂はすぐに破られてしまうとしても。(2024.12.01)