> 戻る

「物語」の外へ

受付でチケットを買おうと待っていると、自分の前にいる六十を過ぎたと思しき女性が(あるいはもう少し上だろうか。今や他人の年齢が、ちょっと見ただけではまったくわからない)今からすぐに観ることのできる映画は何かと尋ね、次はこれですと係の人が指し示した映画を、それでよいと受け入れチケットを購入している。
戦前、あるいは戦後、しばらくの間は、まだ映画を観る、という行為そのものが数少ない娯楽の一つであっただろうから、その頃には、何でもいいから映画を観たいと考えて、作品のことなどよくわからぬまま座席に座るということも、別にめずらしいことではなかったのだろう。
今は逆に作品のことをまったく知らずして映画を観るという方が少ないのではないか。今はどんな作品を観るかが問題で、その作品についてのあれこれ講釈を垂れるひとは多いが、映画を観るという行為そのものはどこか置き去りにされているような気もする。

「悪は存在しない」という映画を、二回、劇場で観た。
同じ映画を二回観るということはほとんどない、というのはついこの間までは本当だったが、最近はネットで昔見た映画を見るという機会が少なくない。だがそんなやり方もあまり実りのあるものではないかもと、最近は思っている。
昔、面白いと思って見返すような映画は、確かに昔そう感じたように面白いと感じはするが、なにか昔の思いをただ想起し、なぞっているだけのような気になって、あまり自分の中に残るものがない。むしろ、昔、あまりよい印象を持たなかった映画の方が違う発見があったりもするが、昔感じたようにつまらないだけの映画も多く、ただ徒労に終わるか、途中で観るのをやめてしまう。
それでも、映画館で同じ映画を二度観るという経験はあまりない、というのは本当で、その意味ではこの「悪は存在しない」という作品に惹かれるものがあったのかもしれない。

もともと話題になっている映画のようだったが、碌に作品のことは知らぬまま見はじめると、御多分に漏れずその最後の終わり方に驚いてしまって、あの唐突な暴力は何だったのか? などと思いながら監督である濱口竜介のインタビュー記事をネットで拾い読みしていると、あの結末に対しては一応自分なりの意図があり、それは繰り返し観て貰えばわかるのでは? と言っているのを読んで、それではと、素直にもう一度映画を見直してみることにする。
だが、二度目の鑑賞を終えても創り手の意図を理解することは出来なかった。観た感触も、一度目とほとんど変わらず、つくづく批評家にはなれないな、などと思いながら。

映画のストーリーは起承転結というより、序破急といったリズムで進んでいく。
最初に主人公の、都市から離れた自然の中での生活が描かれ、そこに東京からの資本の論理が持ち込まれ平穏は破られ、少女が行方不明になる辺りでストーリーは加速し結末に向かう。
見て取れる構図は単純だ。東京から企業が事業計画を持ち込むことで現われる、地方と都市、あるいは自然と文明といったありふれた二項対立だけが単純というのでなく、その二項対立が偽のものであり、現実にそぐわないとする描写まで含めて単純であり、ある意味、空々しくもある。
地元の住人とされるものが、遡れば戦後の開拓民であり、ある意味誰もが余所者だと言ったセリフや、自然への畏敬を語るのが都市から移住してきたものである、といった設定を創り手の上手さ、鋭さとするのか、あるいは、今や誰もが見て取れる一般的な認識に過ぎないとするか? 空虚な多様性が語られ、その偽の多様性が違った抑圧を生みつつある今、私の見方は後者だった。
大事なのはバランス、とか、水は上から下へ流れ、上流の汚れは下流に堆積するとか、そのもっともらしい言い草に違和感を感じているのは、他ならぬその言葉を口にする主人公自身であると思ったのは、私の勘違いだろうか。

最後の暴力に驚いたのはそれがあまりに唐突で、荒唐無稽に思えたから。物語の約束事に従順な登場人物の高橋が、その暴力の際思わず「何なんだよ」ととまどいの言葉を漏らすのはまったく正しい。その暴力は徹頭徹尾、物語の外からのものであったから。すべての約束事に嫌気がさし、そのすべてを終わらせようという凶暴な意志があの暴力を発動させる。
鹿に襲われ、負傷する少女も、物語に定められた犠牲者に過ぎない。主人公が幼女を抱え走り出す先は、物語の外側でなければならないだろう。しかし、そんなことは本当に可能なのか?

物語を否定する素振りを繰り込んだ物語、とはあまりに見慣れた光景、こう言ってよければ、あまりにポストモダン的ではないのか。
あの結末を選んだ時点でこの物語は完成し、映画としては閉ざされたものになる。意志や暴力で、発動してしまった物語を止めることはできない。
インタビューを読む限り、監督の濱口氏自身、解釈は人それぞれでよいといった言葉を無邪気に信じている節もある。もちろん作品を観るのは他人であり、それをどう観て、どう使うかは他人に委ねられている。だが、それが解釈である限り、そこから新しい創造が生まれることはないだろう。
本当はこの結末の先が観たい、それが最初にこの映画を観たときの感触だった。それはもちろん物語の続きが観たいということではなく、物語の外への逃走の具現化が観たいという意味でなければならない。

この文章だった所詮は解釈を拒む、というひとつの解釈。それでもこの言葉の前では静かに手が動いている。
(2024.05.19)