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戻る叔父が入院しているので、様子を見に病院にいった。
一時は、もう無理かと思うほど容態は悪かったが、そこから持ち直して、今は割と元気な様子を見せている。それでも一度は脳の血管が詰まって倒れたから、半身の自由は効かず、移動は車椅子でなんとか、排せつはおむつで済ませるしかない。
それほど深く付き合いがあったわけではなく、長い時間を共有していたわけではないが、小さい頃には母の姉弟の中では一番下の弟で、年齢が一番近いこともあって何度か遊びに出かけた記憶が残っていて、叔父の性格もあって、それなりの親しみ、気易さはある。
病室の中で、特に何か話すでもなく、時折ポツリ、ポツリとお互い呟き、そのことばに答えにもならないような言葉で答えながら、動かなくなった左半身に手をあて、浮腫んだ手のひらをほぐして、どうだ?と様子を伺ってみたり。そうやって時間や空間を共有することで伝わるものもあるだろう。
不自由になった身体をかかえて、今しばらく生きるのか、あるいはボロボロの血管が再びはねて、息絶えてしまうのか。
母親の姉弟の中で、最後に残った弟だった。私の母親は二十年以上前に、下の弟達はここ数年の間でバタバタと倒れ、逝ってしまった。母や叔父が死んでいくさまを傍で見ていて思ったのは、死ぬのは決して楽ではないということだった。ある日突然、ぽっくりと、などと誰もがそんな風に逝けるわけではない。最後はやせ細り、動けなくなってみんな死んでいく。若いときはそれが自分ごとと思えなかったが、今はもう何年かすれば自分も同じように死んでいくのだと考えずにはいられない。
自分もまた、最後はやせ細り、ボロボロになって死んでいく。目の前の叔父を見ていてそう思い、そしてそれでいいのだとなんとなく思った。誰もきれいなままではいられない。その必要もない。
何年か前、役に立たないやつらを亡きものにしただけと言った意味のことをいって、障害者を標的にした殺人があったが、まったく愚かなことだと思う。何もせず、ただそこにいてはじめた伝わることがある、ということに気づけない、想像することすらない。人権や尊厳といったことばすら空疎でしかない、ただあることの厚み、その感触に気づければ。
政治と呼ばれる領域で、また「おもしろおじさん」がもてはやされているようだ。
小泉にしろ安倍にしろトランプにしろ、中身は空っぽだが(空っぽだからか?)面白おかしさが人気を呼ぶ。口角泡を飛ばして批判する側も実はその面白さを楽しんでいる。岸田では乗るにしろ反るしろ面白くないから、短い時間で支持を失っていく、ということか?
「おもしろおじさん」たちが面白おかしく主張するのは凡庸な資本の論理でしかないが、なんにしろ中身のことなど誰も気にしない。気にし出せば結論の出ない対立が続くだけとわかっているからそうしているのか。いずれ切り捨てられる側に立つであろう人も積極的にその切り捨てる人を支持しているという不思議。
「おもしろおじさん」相手にその中身なさを批判しても仕方がない。当の本人たちが中身のないことなど十分承知で、むしろ「おもしろさ」が世界を動かしていることに気づかず、生真面目に中身を主張している愚かさを笑っているのだから。その笑っている様が政治というエンターテイメントの場をさらに盛り上げる。リベラルと称する人たちはこの演劇の中の名脇役、ぐずで愚かなピエロ役を忠実にこなしている。この演劇の中の役者であるという点では誰も彼も変わるところはない。
利害が複雑に絡まる社会。その全体を代表することは誰にもできない。あっちを立てればこっちが立たない、というやつだ。
具体的な政策を言えば必ずそこからこぼれ落ちる層がある。それなら具体的な内容は意識的に空っぽにして、あとはおもしろおかしく人気取りにひたすら走る、というのは代表性の本質をあらわした行動だ。そうやってヒトラーも選挙を勝ち上がり、人気を得た。
もちろん今は個々の利害を脇に置いて行動するとき。しかし、個々の利害を脇に置いて今は考えましょう、などといって選挙を勝ち上がる人は現れるのだろうか?
結局、解決策は見えない。解決策を求めなければ動けないあり方を今は変えるときだ。
目的なく。何かのためになるなどと考えないで、その場でやるべきことをやる他ない。こう言うだけでは、ただ身も蓋もない話し、ということになるか。
息や身体が流れていく先がある。その心地よさを感じながら、意識が覚めていくのをただ待っている。
濁った意識が覚めるとき、自分がやるべきことも見えてくるかもしれない。(2024.7.15)