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紙とペンで

行き場のなくなった者の避難所、のような場所がどんどんなくなっていく。
その流れは別に昨日、今日、はじまったことではなく、戦後の経済成長の中で多くのものを切り捨て、潰してきた。金儲けの祭りのために、野宿者を排除するなど最たるものではあると思うが、それで別に生きることの闇が消し去られるわけではない。すべてが金儲けという歯車の中に取り込まれていく。
あるいは今は「すべて」を知ることができるが、その分、潰されるのも早い。すべてにおいて持続性は薄く、情報として消費されたあとにはすぐに忘れられてしまう。その忘却の速さに乗じて、厚顔無恥に権力にしがみつくのが当たり前になっていく。何とも嫌な世界。卑怯であることがまるで美徳であるかのようなそのふてぶてしさには反吐が出る。

行き場がないならその場で耐えるほかない。それには当然限界がある。
市民社会の側からすれば、そうやって異物を排除した結果、その異物は共同体の中に無理やり留まらされ、そのことで鬱屈をためた挙句、いずれ暴発する。森の中に餌が居場所がなくなれば獣は里に下りてくるし、ウィルスは人々の間で宿主を探す。
そんな流れの中で、もう一度線を引き、隔離しろと騒ぎ出す奴らが出てくる。自分の都合で線を引いたり、消したりしてまったくご苦労なことだ。このイタチごっこに終わりはない。自分の都合で線を引いたり、消したりを続けているうちは、社会は壊れ続け、世界は沈んでいく。

境界はある、そのことを認めたうえで、その境界を越えていく。
だが今は、そんなまどろっこしいことは排除して、ただ無人機を飛ばしてほとんど恣意的に爆弾を落としていくだけ。こちらがやらなければやられるだけと、何のためらいもなく発言するその精神は完全に病んでいるとしか思えない。「近代」という疫病を防ぐワクチンは存在しない。直す、修復する、あるいは解決策を求めるという思考が、既に「近代」に捉われていのかもしれない。

「何もしない」ことは単に呆けて、何もしないことではない。例えば何も考えず、ただ黙っているとき、人は音を聴き、気配に満ち、ことばの訪れを待っている。音を聴こうとはせず、気配を感じようとは考えず、ことばを追い求めることもしないとき、音が聞こえ、ことばが舞い込んでくる。満ちる気配を感じられる。
世界を良くしようと意図して動いている限りは、世界は良い方向には進まない。良い方向、などというものが存在するのかどうかも実は疑わしい。

先月中にもう一本文章をページに上げるつもりでいたが結局やれなかった。色々、雑事が入り込むし、予定通りにいかないのはいつものことだ。
昨年は何人か身近な人、というか身内の人間が死んで行った。母親は早くに死に、生きている父親ももう相当の高齢になる。何より自分が五十を過ぎて、おぼろげに死というものを感じられる歳にはなった。
身近なところで死を見つめたとき、死とはどこまでいっても他人の死でしかないという単純な事実に気づく。人が死んであたふたと走り回っているのは生きている側の人々。死んだ本人は至って静かに目を閉じているだけだ。人は自分の死に立ち会うことはない。それは生まれることも同じで、人は自分の誕生を意識することはない。誕生を祝うという行為には違和感しかないが、それは、子が生まれる喜びというのはきっと親になる喜びの言いかえに過ぎないのでは、という疑いから来るのだろう。
死も生もそれは他人のものでしかないもの。どこから来て、どこへ向かう、といった愚問につき合うことに生きることはない。今、ここを生きること、できることはそれだけだし、それは決して容易いことではない。

書くこと、は相変わらず興味の対象にある。
どんな言葉を書くか、という言葉の並び替えではなく、紙に文字を書き記す感触とただ戯れている。
自分の型に合わせて道具を選ぶのではなく、与えられた道具をいかに使うかを常に考えてきたから、所有する道具は少なくていい、少ないほうがいいと思っている。そんな自分にしては珍しく、万年筆や紙の種類を調べて、眺めて、実際、手に入れたりしている。若い頃、スポーツ靴を色々考えて選ぶときにもこんな感覚だったかもしれない。あのときも今と同じように、手の感覚、あのときで言えば足の感覚か、を意識するだけで動けていたなら、もっと違った場所に出ていけたかもしれない。あの頃から既に考えて動く、という習慣に縛られていた。
ここまで多くのことを諦めてきたが、まだ何も諦めていないとも言える。 手の感触を辿って、また違った場所に向かっていく。(2024.01.04)