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ためし書き かさね書き

言葉は意味を表す記号である、という側面は確かにある。
だが、そこにとどまっている限りは、この出口のない迷宮の中で朽ちていくのを待つばかりだ。
今は違ったことばの使い方が必要となっている。言葉とは何だろう?

日々、夥しい数溢れ出すネットニュースでの言葉などは、まさに言葉など記号に過ぎないというあなどりに基づいて日々生産されているのだろう。彼ら彼女らが求めているのは記号が形づくる(はずの)情報と言う名の蜃気楼。それでも意味という名の蒸気は一瞬で霧散してしまい、光の乱反射は刻々と角度を変えながら違った像を見せ続ける。それを追うものはその虚像に翻弄されるだけ。もちろん本人たちはその滑稽な自らの姿に気づいていない。

本を開き、印刷された文字の羅列を目で追っていく。批評や評論と呼ばれる行為も、その文字の羅列から意味を読み取り、解釈するという以上のことではない。書く方は読まれるべき意味を込めて言葉を書き、読み手はその言葉の意味を目当てに文字を追っていく。ここでいう言葉の意味こそ、柄谷行人のいう「統整的理念」なのだろうか。意味はない、だがそれを想定することなしに人は言葉を書けず、読むこともできない、とか。
言葉にはズレが孕まれており、言葉の意味は多様であり一義的に確定できるものではない、というようなことも批評の言葉から学んだ。しかし、そこからどうする? ということに関しては批評の言葉からは学ぶことはできなかった。それだけでなく、批評や理論の言葉から学んだはずの思想が、行為の妨げになっているとしたらどうだろうか。
あらかじめ解釈すべき意味や思想を読むだけなら、それを読むことの意味すら疑われるだろうし、そこから、手っ取り早く意味を教えてくれる入門書の類を読んでおけばよいという結論になるのも仕方がないことだ。膨大なマルクスの著作を読むよりは、浅田彰の解説でも読んでおく方が楽だ、とか。

それとは違った言葉の読み方、使い方をどう考えるか。
意味や思想を追うのでなく、読む、という行為を通じて、身体はゆるんでいき、静かに沈んでいく。足の裏を感じて、言葉の意味は追わない、理解を求めない。
言葉を読んでいる先でそれとは違った言葉が巡ることもある。その逸脱をノートに書き留めてみる。読むことは書かれた文字を解釈するという退屈で静的な作業でなく、あくまで自由でやわらかい行為でありえる。その行為を通じて違ったことばと出会う。あらかじめあった意味を読むのでなく、言葉をどう使うか、ということ。その言葉をとっかかりにどう動いていくか。きっかけとしての言葉。きっかけの音楽、という本もあったっけ。

ここまで書いていて、ふっと過去に読んだ言葉を思い出し、久しぶりに高橋悠治の本をパラパラと眺め、ネットで過去に書かれた言葉を斜め読みしてみる。結局、思い出した言葉を見つけることはできなかったが、そこでわずかに眺めた高橋悠治の言葉に頭がクラクラする。未来のために読まれるべき言葉はすでにここに書かれており、自分が今書いていることなど稚拙な焼き直しに過ぎないなどと思ってしまう。
だがそんな風に考えることこそ言葉を意味で固定化する悪しき思想に過ぎない。他人の言葉はあくまでもきっかけに過ぎず、そこから違った場所にむかう、いや逸脱を目的化するのでなく、言葉をきっかけに手を動かすことこと。作品を偉大だ稚拙だと選別し、あげつらうことは意味の多様性を弄ぶだけの金持ちの遊戯に過ぎない。手を動かすことの実践がそこにあり、その変化の只中にあるものからすれば、作品の解釈などほとんど必要のないものだ。
一があるから多がある。であるならそこで伝わることがすべてで、そこから派生する多様性など偽の平穏、あるいは無駄な争いに過ぎない。

印刷された文字の羅列を、音楽においての楽譜のように考えてみる。
言葉を読みながら、その声や音を意識するとき、そのリズムや息づかいを感じている、といえるか?
読みながらそれとは違った言葉が頭をめぐるというのも、単に気が散っているのではなく、そのリズムと息づかいから手の動きをイメージしてのことなのか? 読んでいて自分でも手を動かしてみたくなるというのは、ひとつの読書のやり方としてはありえるだろう。
印刷された文字を視覚的に捉えて読むことにどれだけ意味があるのかは、よくわからないでいる。
中上健次の直筆原稿に書かれた文字などは、その執筆方法と合わせて考えるとき(四十八時間、寝ずに一気に五十枚書き上げる、とか)その独自の手の動きがイメージできるようで面白いと感じはしたが、例えば、「書」のありかたなどと合わせて文字と言うものをどう考えればよいだろうか?石川九楊が作家の直筆原稿に書かれた文字から、その作家の書いた文章を類推するというようなことをやっていたが(「悪筆論」)それもまた、それまでと違った解釈の仕方に過ぎないような気がして、あまり響くところがなかった。
上手な字を書きたいわけではない。万年筆で紙に文字を書くときの手の動きと書かれる文字の、その文字の読み方、読まれ方について今は考えている。
頭を空にして、手が動くがまま、まったく思ってもいなかった言葉が生まれてくる様には、何かがあるのではと今は思っている。(2024.02.12)