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あらがわず、柔らかに

イスラエルによる愚かな振舞い、大虐殺が止まらない。
ウクライナでの戦争も、やめる、という話しより武器を誰が用意するかといったニュースばかりが流れてくる。
今日も此処其処で争いは続いている。力で暴力で相手を黙らせる、あるいは殲滅する。
そんな野蛮なやり方とは別のあり方はいかに可能か。
ただ多様性をいうだけでは不十分だ。”多様性”という一つの考え方を盾にアメリカは長きに渡って蛮行を繰り返している。”考え”に捉われている限り争いは止まらない。戦争の種は日常のあらゆる場面にある。変わるべきは自分であり目の前の生活だ。

今の社会を批判し、それとは違う社会を設計し、構築するというやり方の有効性はもうとっくに失われている。
その極端な例は革命の思想ということになるのだろう。革命の不可能性が明らかになった今でも、あるべき姿を夢想しそこを目指す、あるいは理想から逆算して現在の行動を組み立てるといったやり方は大手を振って日常の中で提唱される。
自由とか、未来のためとか、やりたいことをやるとか、それぞれ行動の看板は多様でもっともらしくはあるが、ただその看板が違うだけでやってることは資本家のそれと変わらない。
SDGsだコンプライアンスだともっともらしいことばを並べ立て、自らの下心をくらまし、行動を正当化する資本家のやりかたと、自分がまったくの相似形を描いていることになぜ気づけない。環境だオーガニックだといいながら、やってることはただの贅沢にしか見えないのはどうしたことか。
では、どうしたらいい? と、返す刀ですぐ聞くが、行動に意味を求めるその姿勢をどうにかするべきなのだ。 何かしていなければ落ち着けないその神経症から抜け出すこと。何をするか? でなく、今やるべきは何もしないことだ。

何もしない、とは別に部屋に籠って寝ていろと言っているわけではない。自分の意志で動こうとするのをやめろと言っているだけ。本当に何もしなければ、人間、死を迎えるだろう。意志を離れたって、人は呼吸するし歩けもする。意志で見ることを放棄した後ではじめて見えてくることがあり、今まで気づけなかった音に気づく。そうやってはじめて見えてくる世界がある。意識が目覚めるたびに世界は打ち直される。

世界が変わるとはどういうことだろう。
オセロゲームのごとくすべてが一気に黒から白に世界が変わることはない。
常に世界は多様な色でまだらを描いている。全体は見えない。だが、どこにいても世界とつながっている。全体があり、その全体が一気に変わらなければならないというのも一種の革命思想だろう。一つの思想が全体を被うことはない。それはむしろ世界が健全な証しだ。どこまでいってもまだらでしかないこの世界では、意志を捨てて身体にただ委ねることができるだけ。意志の思い上がりから自由になれるなら、人にも世界にも謙虚になれるかもしれない。

今は、何かを言うより、言わないこと、黙っていることで満ちてくる感触を眺めている。
情報を積み重ねることで全体に辿り着くことはない。存在はすぐ目の前にある。無駄に外堀を埋めるより、今、ある感触に従いながら手を動かしていく。手を動かすことが目的にならないように、なんならためしに手を動かしてもみる。(2024.04.07)