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退屈から離れて

「教える」という行為の中に既に差別の構造が紛れ込んではいないだろうか?
技術や知識を持つものが、持たぬものへとそれを伝える。衝突が起こるのはいつもそのときだ。
あるいは、それが商売の場であり、競争の場であればその技術や知識は隠され、特権的な権利として保有されることもある。知るものと知らぬものの格差は富の源泉だ。だがその格差も時とともにいずれ均されていく。
「情報」はただそれとわかればすぐに活用されるだろう。で、あるからこそ、その情報は公開されるか否かが問題となる。「教える」といっても場面においての違いがあるだろう。いわゆる英語で言うところの「teach」と「tell」の違いだ。情報の公開、あるいは言えばすぐにそれとわかるといったときの教えるは「tell」ということになる。それとは別に人間の身体技術や思想概念などは、言葉にしたところですぐにそれが理解される、あるいはすぐに実践できるというわけにはいかない。言ってすぐにホームランが打てるようになれば苦労もないだろうが、ともあれ打ち方を教える、という場面は野球をやる中でなら日常的な光景だろう。その場合の「教える」という行為は「teach」ということになるか。人は自転車の乗り方や泳ぎ方をいかに学ぶのか。あるいは孔子の思想を、そのことばを読み解釈することで、理解し得たと言えるのだろうか。

柄谷行人の「探求」の中のひとつの主題でもあったこの「教える」「学ぶ」の関係をどう考えるべきか? 「教える」立場と「学ぶ」立場の関係は非対称的であり、その間には「命がけの飛躍」がある、と柄谷は言ったが、そこから先に柄谷が進むことはなかった。「教える」「学ぶ」という立場に権力関係を読み取ってはいけない、というくらいのことは柄谷も言う。「教える」立場は「学ぶ」立場に立つものに伝わることではじめてその存在が認められる根本的な脆弱性を孕んでいる、と。だがただ言うだけなら誰でもできる。その「弱さ」を生きることを、「弱さ」生きることについて書くことも柄谷はやらなかった。「教える」という行為は自分はまったく不得意で、自分ができるのは理論で世界を解明することなのだと、この「哲学者」は言う。だがこれは自分の弱さを見つめた謙虚な発言などではない。「知るもの」と「知らぬもの」の格差を固定化し、自分は常に「知るもの」の立場であり続ける、という権力に居座るという表明でしかない。この「哲学者」は「教える」という実践の場には立たないが、「知るもの」と「知らぬもの」という格差を大いに使って賞をもらい、その賞金一億円をこの先どう使うか、というようなインタビューに嬉々として答えたりはする。 「知」蓄えることで格差を広げ、その差異に居直ることで商売が成り立ち莫大な金が転がりこむ、というような構造が今問題になっているのではないのか? その構造を温存することで存続を果たそうとする社会に対してまさにその「知」でその流れに対抗する、というのは悪い冗談にしか聞こえない。「教える」「学ぶ」という実践の場を離れて、「知るもの」と「知らぬもの」という固定化された格差の中で、くだらないニュースが日々更新されていく。セクハラ、パワハラなどという使うのも虫唾が走るような軽薄なことばが横行する大学と言う場が、「教える」「学ぶ」という実践の場であるわけもない。柄谷という「哲学者」がその傍らで大学の教員であり続けたというのも、まあ、そういうことなのだな、と妙に納得するだけ。哲学者は教壇の上からものを言う、といったのは高橋悠治だった。

「教える」「学ぶ」という関係についての柄谷の論考から、世界の根拠のなさを学んだ。今はそこまででこの「教える」「学ぶ」という関係から少し距離を取ろう。相手に伝わる限りにおいてはじめて、ことばは意味をなすと柄谷はいう。確かにことばは常に他人のものであるほかない。逆に言えば意味を追う限り「他者」に縛られるほかないだろう。だが、書くという行為は、今、目の前にある。行き着く先は見通せないけど、手の感触があれば書き続けることはできる。書くことで日常はその都度、打ち直され、またそこからはじめることができる。無根拠、無目的にことばは続く。いや、ことばではなく、先に手が動きはじめる。ことばの意味を打ち破って、ただ自分だけのために書き続ける。

一年中、山仕事をしているとその季節ごとに作業内容が変わる。あるときは木を伐り、草を刈り、苗を植える。その都度、それまで何度も繰り返していたはずの作業のやり方を忘れている、という感覚に襲われる。久しぶりにやる作業のはじめはいつもおそるおそる、それ以前にやっていたはずの自分の身体の感覚をなぞることで進んでいく。確かに以前の作業をやり直し、繰り返すことで自分の身体の動かし方を思い出しはするが、感覚をなぞっている限り、すでにそれは今の自分の身体の感覚ではない。繰り返すたびにもう少し違ったやり方のほうがいいのではと線からの逸脱がはじまる。毎年、作業を繰り返すたびに少しずつ感覚は変わっていく。単純な作業の繰り返しは確かに退屈だが、内側から感じる線からの逸脱と変化があればその退屈から遠ざかっていられる。(2023.09.23)