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ばらけていく言葉

まだ十年前なら、日々の生活の中で抑圧を感じ、その抑圧に抗する、とまでは言わないまでも、そこから逃れていかに自由でいられるかと考えていたが、今はもうそんなことを考えることもない。ただ、悪くなっていく世界を他人事のように横目で眺めているだけ。崩れ落ちて行くこの世界をとどめることはもうできない。
今まで抑圧する側の連中も、今や無残な姿を晒し、その狂気を隠すことすらしない。この無意味な世界の中に逃れようもなく自分もいる。それでも、怒りや苛立ちや焦りといった感情がいつのまにか蒸発してしまった今こそ、世界と向き合う姿勢が問われるのかもしれない。どんなに無残な社会の中にいてもとりあえず生活は続いている。

言葉とは何か? という問いから、また、はじめてみる。
言葉は意味に動かされてはいない。言葉の意味とはなんだろうか。誰も見たこともないはずなのにそれがあると信じてやまない「意味」という強固なイデオロギー。「言葉の意味」という言葉。
試しに辞書でも引いてみようか。
「試みる」とはどんな意味か? どんな結果になるか、確かめるために、実際に何かすること、と辞書には書いてある。
さて、この一連の動作の中に現れたのはただ言葉だけだ。言葉の意味を問えば、それと引き換えに違う言葉が返ってくるだけ。言葉は言葉を呼ぶ。一昔前にはことばの戯れ、などと呼ばれた事柄だ。
言葉に意味はなく、ただ表層にあることばとの戯れがあるだけ、という意味をまといただ悪ふざけを続けるという質の悪い冗談に耽る連中よそ目に、もう少しこの言葉の戯れという現象を考えてみる。
言葉の戯れの向こうに、意味はないが、そこには言葉を発する声があり、文字を書き記す手の動きがある。
言葉が一対一で対応すると考えるのは初歩の段階。その段階を過ぎ、戯れの中でことばは柔らかく拡散していく。
だが、言葉が自立的に増殖していくわけではないだろう。その言葉の傍らには手があり、声がある。その手や声を無視してことばの解釈に明け暮れる時代は当の昔に終わっている。
見よう見まねでボールと戯れているうちに、自然と技は身につけられる。だがスポーツの身体性は勝敗という目的に縛られている。その目的を離れて、手とことばの関係を考えながら「プレイ」する楽しさを今は探している。

ただ、ことばの森の中を歩いていく。それはただ無目的に街をさまよい歩いていくことと何ら変わりはない。その都度何かを感じながら。いつだってことばとの出会いを求めている。いまだ、愛すべき言葉との出会いを、もしかすると果たしていないのかもしれない。
いくつかの出会いと別れを繰り返して、今日もまた違う出会いを探している。
理論や物語という閉域。理論化や物語作家を名乗るということは、自ら閉ざされてあると告白しているようなものではないのか。
それとは違って、書き手の意図から遠く離れて。ただ自由に言葉の森を歩いていく。正解はなく、ゆえにそれを求めることもしないから息苦しさもない。またあらたに言葉に出会えたなら、そこで違った道が開けるだろう。 言葉の意味は変わる、というよりは、そこでまた違った言葉の使い方が発見されるということなのだろう。

書き方がわからない、とか言うより前にまず読み方が違うのだから書けるわけもない。
と、考え直して自分の書いたことばを読み直してみると、その言葉の繋がりより、言葉の切れ目、断片性が見えてくる。
もともと断片的でしかありえない、と思っているところに無理につながりを求める必要はないだろう。
切れ切れの言葉、きれぎれの記憶。それを繋ぎ合わせるすべもなく。きれいな物語などはじめから望んでもいない。
むしろ、少しずつ、少しずつ、ばらけていけばいい。そうやってできた隙間、余白の上でまた手は動いてく。
(2023.11.3)