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マスクははずして

マスクなどしていてまともなコミュニケーションができるか? という話しはあまり聞かない。
せいぜい子供の発育への影響とかそんな程度の話しか。子供がどうとか言う前に自分たちの人間関係に問題がないか考えた方がいいだろう。
まともな対話が出来ず、他人との信頼関係を築けず、ただただ自閉していくだけなら、それは死に至る病だ、というのは例えに過ぎないとしても、そのことで社会がどんどん崩れていく、というのは決して大袈裟なもの言いではないだろう。今、まさに社会が崩れ落ちていく只中にあり、そのことに歯止めがかからないのも結局、他人との対話不全がすべての根本にある。疫病で死ぬか、ワクチンの副作用で死ぬか、あるいは対話不全のまま社会が壊れていくかといった状況の中で人は何を選択すべきだろうか? 

昔、小林克也や伊武雅刀がやっていた風刺コントで、日本人は自分の名前を言うときには極端に声が小さいのに、所属する団体を答えるときには途端に声高になる、というのがあったが、それはYMOが流行っていた頃のことで、ということは八十年代初頭か中頃のバブル前夜といった時期だったはずだが、結局、今、誰もが喜び勇んでマスクをするという状況は、その八十年代の頃と何も変わっていないということなのだろうと思う。誰もがマスクで顔を隠し、個人であることを避け、集団という隠れ蓑の中でただ無責任を貪っている。

最近、外を出歩きたいと思わなくなったのも、すべてネットで事足りるということもあるが、なにより誰も彼もマスクで顔を被ていて、それが嫌でつまらないというのも大きな要因なのだろう。見知らぬ人々の表情を眺めて感じること、読み取れることは決して小さいものではない。顔が隠されていれば見知らぬ誰かと出会うかもという下世話な欲も湧いてこない。結局、ただ必要なことをやりとりするだけでそそくさとその場を後にするだけでは、逸脱もなければ余剰もない。ネットを通しての交流も盛んなようだが、自分の目的に沿った人を探し、会うだけの、逸脱を排除した出会いに何か意味があるのだろうか。それでも誰にも会わないよりまし………とは言えるのだろうが、やっぱりねえ…
今の社会では、すべてが情報として処理され、その情報をやりとりすることが対話だとされているようだ。まったく人間も馬鹿にされたもの。で、誰に馬鹿にされるって………? 無意味な世界が今日も果てしなく広がっている。

いよいよ、人工知能が小説を書く時代がきたようだ。どんなことまで書けるのか少し興味はあるが、まあ、今、出回っているものと同じような言葉を書くくらいのことはできるのだろうな、と思うだけだ。
AIに新しいことばを作ることはできるのか? 複雑(に見える)な物語を書くことはできても、若者ことばと言われるような稚拙な、それでいて未知なことばを作ることすらAIでは不可能なのでは? 新しいことばは対話の中でしか生まれない。それは複数ののコンピューターを掛け合わせてそれで済むというものでもないような気がするが。
人工知能は創造をただバグとして処理する。それがどんなに複雑でも人工知能は既知のものをただなぞることができるだけ。本来、人間を模倣することで造られた人工知能だが、今は逆に人間が人工知能を模倣している。
人間は社会は、そして世界は創造なしで成り立つのか? 今、改めて、創造や新しさとは何かが問われている。

そんな現実の傍らで、ただ細々と手を動かし続けている。
行為に意味を求めることは当の昔に止めている。手の動きの感触、その日の状態によっての固さや柔らかくなっていく様、動きの変化を観ている。日々、抑圧を感じない日はないけど、そんな中でも少し息のつける自由を感じて。
まだ、正気を保てているだろうか? (2023.03.02)