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多様性を疑う

もう、何かを書こうと思っていないから、書くことは苦にならないし、さほど難しいことでもない。 書き方は色々あるだろうけど、自分の場合は安物のボールペンか万年筆で一度縦書きで書き、後からパソコンで横書きの書式で打ち込んで、ページに文章を上げる。書くことは手の動きと考えるとあえて言うなら肉体労働に近い。普段、身体を動かして労働するのとさして変わらぬ感覚で、気が向いたときに手を動かす。もちろん、金にはならないが………。

今、住んでいる場所、地方の山の中で暮らして十年以上が経つ。自然を愛でる感性は乏しく、都会で出来ない暮らしを地方で実現するなどという気もなくここに移り住んだ。ただ、この土地で仕事が見つかったというだけの理由で。都市を離れ地方で暮らすということはおぼろげに意図していたことだったが、今、いる場所は考えていたより少し山の中に入り込んでいる。それでも、移り住んだ当初は、その山の中の暮らしもわずかな誤差として受け入れられるはず、と思ってこの場所での生活をはじめたのだった。
どこかに行く、どこかに向かうという気はまったくなかったが、それまで暮らしていた場所を出たいという意識はあった。それはつまり東京を出る、ということだったのが、それはそれまでのフリーター暮らしの安月給ではどうにも立ちいかなくなり、同じ安月給ならせめて土地代の安い場所を探して暮らした方が、自由にやれる範囲も広がるのではと考えてのことだった。
仕事をしていても金持ちの太鼓持ちをやっているような気持が濃くなるばかりで、そんな中でも反乱や暴動が起きる気配もない東京という場所ではもう暮らせないと思ってそこから逃げ出したのだった。権力を倒せないなら、少しでも権力から離れていようとそのときは考えた。逆に言えば、東京を離れれば行く先はどこでもいいと思っていた。そんな適当で当てずっぽうな移動の仕方も身軽な独り者だから出来たこと。もし家族でもいればまた違ったやり方を考えなければならなかっただろう。

そんな乱暴な移動のやり方も自分にとっては目新しいものではなかった。若い頃から何度か繰り返してきたいつものやり方。何をやってもすべてが既知の回路に吸い込まれてしまい、ぐるぐる同じ場所を回るだけといった感触が濃くなって来れば、場所を変え、人を変え、生活を変えてまた一からやり直す。そうやって半分無理やりに違った暮らしをはじめる、ということはそれまで何度かやってきたことだった。そんな風にやって見えることもあったのかもしれないが、今はもうそんなやり方で動こうとは思わない。もう若くもなくそんな風にやれない、といってしまえばそれまでだが、変化や逸脱への見方、やり方が変わってきたともいえる。無理やり、ただ闇雲に変化を求めたところで、変わるのは表面的なことだけで、結局ホントのところは何も変わっていないのでは、と疑う以前に、それが変化や逸脱であっても、何かを求めて動き出すというやり方が違うのでは、と思いはじめた。変化や逸脱も所詮は結果に過ぎず、それを求めるという時点で、ある方向性が決まってはいないだろうか。例えばこうして実際に手を動かすことと、変化について考えることは違う。いくら考えてみても手をどう動かすか? という問いには仮の答えが用意できるだけで、考えれば考えるほど手は固まり、動かなくなる。たとえなぞり書きでもためしに書いてみたほうが得るものも多いだろう。

東京を離れたあとで変化を迫られることはあっても、自分の中では何かを変えようという気はほとんどなかった。それまでとさして変わらぬ生活を、この山の中でも続けられるだろうと思ってここに移動してきた。移動の条件としてひとつだけ、ネット環境が整う、ということは考えていた。ネットさえあればどこに行ってもさして変わらぬ暮らしができる、という条件がなければ、都市を離れて暮らすと考えることもなかっただろう。それまでは地方という場所は権力に餌付けされることでしか生きられない場所、という認識しか持っていなかった。ネットがあればとりあえず地方という囲いの外を意識することはできる。田舎暮らし、とか都会暮らしといった区別が何か意味をなすとは思えない。ネットなど繋がる以前からもう生活の均一化は進んでいたし、その均一化の中で夢見られる生活は結局、バリエーションに過ぎず一を前提とした多に過ぎない。今の世界の中でいくら多様性を唱えてみても、それは所詮、蜃気楼。どこまでいっても見せかけのものに終わるだけ。

世界は多様である以前に、多くの謎に満ちている。自分は何も知らない、ということからはじめて。また、今日もただやれることをやるだけ。(2023.07.08)