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わからないままに動く

一日、一行でもいいから、ともかく書いて、毎日手を動かしてみる。
そんな風に思って、今まであまり積極的に書こうと思ったこともない日記というものを最近はじめてみる。
まだ四、五日しか書いていないからどこまで続くかもわからないがともかくやってみようとは思っている。

書きたいことはなく、伝えたいメッセージもないが、こうして手を動かすことには何か発見があるのではないかと思って最近は書き続けている。ノートや原稿用紙にまず手書きでことばを書き、それをパソコンに打ち込んだ後で、ネットに上げる。手間は増えるが、パソコンにことばを打ち込むことは書くという作業とは別のもののように最近は思えているし、そもそもあんまり楽しくなから、最近はずっと手書きでことばを綴っている。

何が本当で何が嘘なのかわからない時代、などと言われる以前から、もう随分長いあいだ、でたらめなやり方が横行しているわけだから、今の現実は、単純に社会が壊れ続け、沈んでいっているということなのだろう。それでも、まあ、現実がめちゃくちゃ過ぎて何が何だかわからない、という感触は確かにある。
それでも、人はいつでもすべてをわかった上で行動しているわけではないし、未来は誰にもわからない、というのもわかってしまえば当たり前のことだ。未来が見通せるように思えた時代があったとするなら(今もか?)その時代こそがおかしいのだろうし、未来をわかったような口ぶりで語る人がいたなら(そんなやつらばかりか?)その大抵は偽物に過ぎない。

人はすべてを見通せなくとも動くことができるし、何ならその都度考えて動いているわけでもない。この文章が何を書くか決まらぬまま手を動かし、言葉が綴られていくように。
わかろうとすること自体、何かに捉われているのかもしれない。意識でわかっていなくとも身体は静かに動いている。意識で身体を動かそうとする力を意識で止めて、そのことも忘れていく頃、腰は沈み、身体は柔らかくなっていく。 頭をよぎる小さな一言を躊躇しないこと。その一言が現実を揺らし、何もない空間を開く。今の不自由さの重荷を忘れず意識して。なぜならそこから逃げられはしないし、逃げる必要もない。そんな中でも僅かな隙間の中で自由であれる時間は見つかるか?

互いの問題が互いのあいだに横たわり、身動きがとれなくなっていく。
あちら側が間違いで、正しさはこちら側にある、といった単純さでは割り切れないのは当たり前のこと。
相手を変えたい、世界を変えたい、そんな欲望を捨てて。自分を変える? その意志ですら現実に対する思い上がりになりうる。それでも、自分の居場所、ほんの少しでも息のつける場所がなければやっていけない。黙ったままではいいように使われ、押し付けられるだけだ。
暴力に依らず、交換の原理の中で。いくら自分の側のレートが下がったとしても交換で成り立つ現実がなくなるわけではない。

権力から遠くにあって自由であるやり方も悪くはない。問答無用にミサイルが飛来する下での生活もある。
誰もが現実に強いられ、振り回されて生きている。
物事を選び、選択できるという思い上がり。力への意志は必ず差別を孕んでいる。(2023/02/12)