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意味という壁

他人のことをよやかく言っている暇はないのだろう。
もう若くもないのだから、自分がやるべきことをやらなければ。

情報が溢れ、そのことで却って人々は混乱している。
自分にとって都合の良い情報、あるいは好みのような基準に情報は選択され事実は霞んでいく。
まず自分がありそこから選択という行為がなされる。
そうではなく、まず出会いがあり、自分という器が形成されるのか。
しかし、その出会いに何の必然があるのか、ないとすればその結果として形成される自我もまた不確かなものであるほかない。
自分という器、などと安易に書きつけはしたが、そんなものが本当に存在するのかという疑問も残る。

その都度、その一瞬だけは常に無であり続ける。
すぐに自分という器、つまりは自己意識に囲い込まれるとしても、その一瞬の運動だけは誰にも止められない。 このどうしようもない、自分、という意識に捉われることなく常に運動の場に身を開き、動いていく流れをただ見ている。まだ、観る、という意識が生まれる手前で。

言葉の意味に捉われず、一見、破綻しているようなことばの連なりの合間に見え隠れする、熱を感じ取れるだろうか? あるいは言葉からはじめて、その一瞬の運動を試し、実践してみるか。
自分の考えに閉じこもっていたら、その柔らかさ、誠実さを取り逃がしてしまう。ことばでなら、何とでも言える。こうである、と言えば、いや、そうではない、といくらでも言えるように。そんな誰でもできる当たり前のことを嬉々として続けていられることがよくわからない。そこにあるのは意識に捉われた愚かさだけだ。
言葉はきっかけ。そこからはじめることができても、ただ、言っているだけと実際にやってみることには千里の隔たりがある。ことばの側にあっても、実際に書き、実際に声を出すことはできるはず。無限の迷路の出口はここにある。意味の囲い込みから逃れて、ビンの口は常に開けておこう。

詩や小説といった、既に出来上がった器に頼らなくとも、今、ここから、書くことははじめられる。
こんなものは詩でも小説でもないというのはもちろん誉め言葉としてしか響かない。
レートが配られていなければ言葉が読まれないなどということはないだろう。ただでさえ、日本語という制約の中にあるのだ。

書くこと、つまりこうして手を動かすことなら、楽しめるような気がする(万年筆を使ってノートにこの言葉は書かれている)。読んで、解釈するという思考の延長として書くのなら、そこには退屈しかない。思考の奴隷である限り、そこに書くという行為が入り込む余地はない。坂口安吾が、書くことが思考に追いつかない、もっと早く書ける方法はないか、と書いているのを読んだが、それは行動は思考を超えることがないと言っていること。
今、やっているのは早く書くことではなく、少し速度を落として、ひとつ、ひとつの線を見ながら、その動きが途切れるまで手を動かし続けること。
書かれる言葉はいまだ決まっていない状態で。書き終わったあとで思ってもみないことばがそこにあることが望ましい。それが書くことの意義。手の動きは常に言葉の意味を食い破っていく。(2023.11.23)