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音楽と政治

音楽家の山下達郎が芸能事務所の元社長が犯した性加害を擁護か? というような記事を読む。 そこから、それに対する反応や発言をする人たちの動画をいくつか見たが、そこで感じたことからはじめて、何か書いてみよう。さて、何が書けるか…

坂本龍一は山下の音楽的才能を称賛している。自分がアカデミックな場で習得してきた技術を山下や細野晴臣は独学で我がものとしている、と。その意味では山下も細野も天賦の才に恵まれていたのだろう。山下や細野に限らず、あの時代、まだ今のように何でも聞けて、何でも知れるような環境などない状態で、限られた音源や、映像の断片から始め、てすぐに歌い、弾き、創れてしまった音楽家達は、やはり一種の天才であったのだろうとは思う。逆にいうと、今の時代の中で何でも小器用にやれてしまう若者たちからは洗練ということばは浮かんでも、才能を感じることはない。もちろん才能の時代は当の昔に終わっているわけだから、それを懐かしむ必要などまったくないが…

細野晴臣にはまだ非政治的であることの政治性に対する意識があった。だが、山下の音楽を聴く限りその意識を感じることはまったくできない。政治から遠く離れて、音楽はただそれだけで目の前に存在すると山下はまったく疑うことなく信じているように思える。あるいは音楽とは、世俗から離れた領域と自ら定位しているというべきか。
無邪気に音楽を信じている、というよりはそう信じることで成り立つ音の連なりだけが音楽なのだと山下は言っているのだろうか。
山下の音楽に対する信仰は、一見、無邪気で純粋に見えるし、その信仰はそのまま作り出す音楽の美しさに反映されもするだろう。だがまず音楽があり、山下がそれを信仰しているわけではなく、現実を排除することで見出された領域を、音楽、として定位していることを忘れるべきではない。そうやって見出された音楽の領域はすでに十分に政治的でもある。

山下にとって音楽は現実を映し出す鏡などではなく、ひたすら透明でキラキラと美しく輝くオブジェなのだろう。
そんな風に単純に切って捨ててしまえることに、却って狂気を感じるほどだが、実際、狂っているとは言わないまでも、その姿勢はやはり間違っている。閉ざされた密室の中でひたすら音楽に耽る、音楽マニア。音楽が音楽だけで音楽足りうると純粋無垢に信じられるその愚鈍さが、そのマニア振りに歯車をかける。
技術の洗練、理論の裏打ち、透明な歌声とハーモニー。誰が聴いても美しいと思える音の建造物。だがその美しさは、迷いやブレ、逸脱、何なら間違いでもあるかもしれない夾雑物を排除した上で成り立つ美しさだ。 そして、少なくとも私は、この美しさにまったく興味が持てない、必要性も感じない。

山下の作り出す音楽を好み、愛好してきた者たちが、今回の山下の発言に失望するというのはおかしい。なぜなら、政治から現実から逃避し、それを排除することでこの音楽は成り立っているのだから。政治だけではない、音楽を聴き、歌い、音を奏でること以外、すべてを排除することでこの音楽は成り立っているのではないのか? 人は音楽だけでは生きていけない、だが山下達郎とはその不可能を実現したかのように見える。
そして、その不可能を可能にしたのは、山下の作り出す音楽が巨万の対価を生み出したという事実だ。
一人の音楽家が作った音楽が巨万の富を生み、そのことでさらに純粋に音楽に閉じこもることを可能にする、などという時代は山下が生まれ、過ごした時代以外にありえなかった。山下は時代に制約された音楽家だ。今、その音を聴いてもただ、ただ異様なまでの洗練があるだけ。その洗練は今の若者たちに通ずるものだ。山下は自らの才能でその洗練にたどり着き、今の若者たちはyoutubeやspotyfyでその洗練にたどり着く。今後は人工知能がその洗練を加速させるのだろうか? どちらにしてもそこに音はない、音楽の未来はない。

山下の今回の発言と彼の音楽はまったく矛盾することなくそこに存在する。山下に政治的正しさを求めるなどまったく虚しい願いでしかないだろう。それはプロの野球選手に、サッカーの試合での活躍を期待するほどに馬鹿げている。結局、政治のことなど何もわからない人間なのだ。そんな人間だからあの美しいだけの音楽を作り出せた。
もちろん、今回の件を、知らぬ存ぜぬでやり過ごしていい、ということにはならないだろう。仮にもひとつの組織の責任ある地位に名を連ねているのだから、それなりの社会的責任を問われるべきである。もちろん、少し考えれば、その責任ある地位とやらもただ名前を貸しているだけで、実務は他のものがやっているというであろうということは容易に想像がつく。
繰り返しになるが、才能があるのにあの発言はいただけない、のではなく、現実を排除し、そのことで可能になる求道性の先に山下の音楽はある。あまりに美しい山下の音楽。ただ、美しいだけ、美しいだけだからこそ人畜無害に広がり、人と人の間に入り込んでいく。ただ音楽を作るだけの職人と山下は自分を定義する。確かに音楽は音楽でありその固有の領域は確かに存在する。しかしその領域とはあるときには音楽を疑うことも必要になるような動的な領域だ。山下の思考はあまりに単純であり静的だ。その単純な線引きを譲らない頑固さだけが今は垣間見えるだけ。
そうやって作られた美しいだけの音楽は資本を、権力を補強するだけに終わるだろう。

文学は政治だが、音楽は政治ではない、と坂本龍一は言っていたが、このことばはどう理解するべきだろうか?
  確かに音楽はことばではない。ことばはいつだって意味に絡み取られている。だが音楽がことばとは違うとしても、音楽は音楽であると言ってしまうとき、坂本の中にもある種の居直りを感じてしまう。山下ほど無邪気で無知ではないにしても、坂本もまたどこかで‘音楽’という密室を信じていたのでは、という疑いは拭えない。坂本は政治的正しさを主張するが、そのことばも常に安全な場所から発せられてはいなかったか?
音楽は確かに、政治でなく、あくまでも音楽であり続けなければならない。だがそれは音楽と政治を単純に切り分けて活動すればよい(坂本龍一のように?)というだけではすまない。音楽が音楽であるとき、常に政治に絡み取られ、利用されていく。音楽と政治の癒着を否定し続けるとき、その否定の矛は自らに向き、音楽自身もまた否定されるときすらあるかもしれない。安全な使い分けではなく、不断の移動と運動の中でようやく音楽の領域は確保される。

音楽から音を開放する、と高橋悠治は言う。坂本の最後の作品「12」の中に浅田彰は音の発見を聴く。だが坂本の音と高橋悠治の柔らか手の動きを並べるとき、その音の発見はあまりに不十分に響く。
高橋のピアノ曲を聴くとき、そのワンフレーズ、ワンフレーズをまったく別の響きと捉え、作品でもひとつの曲でもない、何度も繰り返される、断片の積み重なりの輪郭をとらえるときその手の動きが、身体の軽やかさが、浮かび上がってはこないか。音はその場で生まれ、すぐに消えていく。何度も何度も音の響きは繰り返される。そのことでようやく音は音楽から解放される。(2023.08.04)