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あらたな創造に向かって

しばらく顔を合わせてない友人。たまに思い出して、どうしているか? などと考えたりして。
ただそう思うだけで何もせず、いつでも連絡できるからなどと言い訳して、今の日常をだらだらと続けていく。
そんな近いような遠いような存在と、すでに死を迎えた者との関係は決定的に違っている。
またいつか会えるかもしれない、という可能性が途絶えもう二度と会うことが叶わないという現実が目の前に立ち現れる。他人の死を知るとき、文字通り何かがプツリと途絶えるような感覚が身体を揺らす。ひとりの人間の生が突然にプツリと途絶える。自分と相手とのそれまでの関係がそこで唐突に終わる。
死者は何も語らない。生きている人間は死者に対して何とでも言える。死人に口なし。
だがそんな愚昧あり方とは別に死者との対話はある。ふとしたとき、自分が相手を何も理解していなかったと気づく。あのとき、彼、彼女はこんな気持ちだったのかもしれないと想像は巡る。だがそんなときも死者は何も言わない。変わったのは自分の方なのだとその沈黙が伝える。
死者は何も変わらない。それでもそんな気づきが自分の思いを死者に投影しているだけ、とも言えない。
死者は紛れもなく自分の思い通りにならないものとしてそこに存在する。芸術とは死者との対話であると言っても決して間違いではないだろう。無数の死者に囲まれながら、我々の日々の生活は成り立っている。

会うことも叶わず、何も語らず、もう変わることもない死者が、それでもまだ存在するとはどういうことなのか。
単に自分の思い込みを投影しているだけではない、というときその死者という存在とは一体、何なのだろう?
芸術や文学、哲学ならそこに作品やテクストが残されている。それらを介さない死者との対話は可能なのか?
それを可能にしている力とは? 霊的な力? いやそんな人をたぶらかすようなことばでなく、もっと身近で当たり前の感覚が、今、目の前にある。

もういなくなった人を思うとき、具体的なことばや場面が浮かぶのでなく、もっと直接向き合った声や息づかい、表情の柔らかさ、明るさ、暗い影。そんな言葉でしか言い現わせないが、それでいて具体的な感覚が思い浮かばないだろうか。その感触を離れれば対話は独り言にすべり落ちていく。で、あるなら作品やテクストから、芸術的技法やことばのリズムでなく、もっと具体的な感触を受け取ることはできるか?
  その感触からはじめてまた違う道を行く。誰かがいなくなった違う世界を生きる。

才能の時代はもう当の昔に終わっている。その人にしか描けない絵、作れない音楽、ことば、文章、そんな極個人的な技法が時代を変えることは結局なかった。それをもてはやし喜ぶのはその取り巻きと、商売にする資本家だけ。高橋悠治風に言うならそんな個人の才能が一体に誰のためになる? ということになるのだろう。
才能を評価し、分析して、なんとか価値づけ商売にする。それよりはどんなに拙くとも自分で手を動かした方が、少なくとも経験や学びにはなる。
才能を崇めているあいだは競争や格差がなくなることはない。百メートルを九秒で走るか二十秒で走るか、そのどちらに優劣をつけるかという問いは、生きる上ではまったく意味がない。九秒にしろ二十秒にしろその間でどれだけの発見があるか? ということ。その中で少しづつ変化はしていくだろう。発見の中で九秒が八秒に縮まるか、あるいは二十秒を三十秒まで引き延ばしてみるか。結局、九秒か二十秒かという外から見た結果に価値はない。今はまた次なる創造が求められている。一見、ありふれた音やことばを違った風に使って、また違う道を探っていく。(2023/04/08)