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敗戦前夜

経済の繁栄と引き換えに、自由を削がれ、拘束される。
それは自分たちの世代が見た、それ以前の世代が作った社会、生活だった。
経済成長を謳歌する裏で、あらゆる問題は積み残されたままになっていく。冷戦構造の中では奇妙で幸運な(不運な?)力学が働き、確かに山積みにされた問題を見ずに過ごすことができた。
だが、ソ連が消滅し、それまでの社会構造が変わるとすべての問題が露わになっていく。少なくとも自分にはそう見えていたが、回りの人間の反応は違っていた。多くの者はその変化を認めず、それ以前の生活、文化をそのままに暮らしを続けていく。あるいは変わりたくとも変われない、というのが本当のところなのかもしれないが。
焼け野原からはじまった奇跡の経済復興はなぜ可能だったか? それはまわりの人間がやるから自分もそうするのだ、という単純な同調圧力が強く働いたから。個人の顔を消して、同調圧力に従順な、社会主義ならぬ会社主義などと揶揄されもしたこの態度が、すべての運動の原動力だった。まわりの人間が経済のために自由を捨て、進んで拘束に身を委ねるのだから、自分もまたそうする。ここに主体的な選択はなく(本当はあるが、ないとされる)、よって責任も生じない(とされる)。そうやって誰もが同じ方向を向き、歩き続けることで出来上がったのが戦後の総中流社会などと呼ばれる、隠微で陰湿な社会だった。
冷戦構造が壊れても、人はこの同じ方向に向かう動きを止めること、やめることはしなかった。この運動がその行きつく先に一喜一憂することはない。ただお互いがお互いを監視し、同じ方向に進んでいければそれでいいのだから。もし今、社会が壊れていくことでそのやり方を批判するものは、同じようにそれ以前の好景気を謳歌した社会も批判しなければならない。そこで働いている力は何ら変わりはないのだから。結果の良し悪しを除けばやってることは同じなのだ。
頼みの綱の経済もいよいよ破綻を迎えることが現実味を帯びている。そのことで貧乏人が一番のとばっちりを受けると考えると嫌気がさすが、まあなんとかやっていくしかないのだろう。

山本太郎は「政治家」としては優秀だと思うが、経済ついての認識が決定的に間違っている。MMTと呼ばれるような理論に飛びついたことが致命的だったが、そんなマルチ商法まがいの理屈に取り込まれてしまった心理はなんとなくわかるような気がする。
要は、政治家としての、引き、が欲しかったのだと思う。財政を今以上に出動しそれを弱者へと分配するというのが山本の言い分だが、その言葉にきっと嘘はないのだろう。この十年、安倍晋三とその取り巻きたちはやりたい放題の放漫財政を続け、その金をただ自分たちだけのために配り、使ってきた。その同じやり方で、今度はその金を弱者のために使うのだと山本は言うが、その言葉は思ったほど弱者からの支持を集めていないように見える。 それも当然だろう。ほとんど無限に国は借金ができるというようなその口吻にはどこまで行ってもいかがわしさがつきまとう。その金をいくら善意に使うと言っても、その前に経済がたちいかなくなるなら、ただいたずらに社会を破綻に追い込んだだけ、ということになってしまう。「日銀は国の子会社」とのたまって死んで行った安倍の批判などこれではできるはずがない。

正しく増税をするとか、利益の出ない企業はしっかりと潰すとか、そういう必要でまともなことを言うと、選挙には勝てず、政治家にもなれない。これが政治であり、民主主義だ。そんな現実の前でただ政治の重要性を説き、民主主義を信奉することは欺瞞に過ぎない。ではどうすればよいのか。

世の中を、あるいは社会を良くしようなどとは考えない。ただ目の前の生活の中でやるべきことをやるだけだ。 毎日、基地反対を訴えてゲート前に立ち続けている人たちがいる。作家の目取真俊はカヌーで海に出て、基地工事の中止を訴える。ヤンバルの森で、米軍が使用しそのまま打ち捨てた大量の実弾を、その存在を知らしめるために、知事候補の演説中にそれを投げつけ、逮捕された人もいる。
それぞれがそれぞれの場所でやむにやまれず行動を起こしている。そんなそれぞれの行動だけが、結果的に世界を変える。狭義の政治や民主主義などクソだ。口当たりのよいスローガンを疑い、今、やるべきことに目を凝らし、日々の暮らしをこなす。