書くことは考えること、ではなく、あくまでも手を動かすこと、と捉えてみる。
thinkではなくplay。playでありそれがplacticeでもある、そんな書き方。
長い時間、長い分量を書く必要はない。短く、少なくていいからとりあえず毎日書き、手を動かす。
やっていなければ身体が動かなくなる、そんな感覚で。
頭の中にいつもことばがあり、書くことはその頭の中のことばをただなぞるだけ、それが理論であり哲学なのかもしれないが、そこには新たな創造がない。同じ言葉の繰り返しか、そうでなければせいぜいそこからの枝分かれをありがたがり、新しがるなんて退屈以外の何ものでもない。ただ頭で考えることと、実際、手を動かすことはまったく違う作業だ。
世界を見渡すことは誰にもできないはずだ。そのことを忘れたとたん、人は傲慢になり現実を見失う。例えば戦場に直接出向けば、いま、起こっている事態のすべてが見えるのか? そんなはずはないだろう。戦場に赴けば、ロシアの兵士がいかに法に反した残虐行為を働いているか見て取れる、それは確かにそうだろう。戦争とはそういうものだ。だからこそ戦争などやるべきではないし、終わらせなければならない。そのためにもプーチンの蛮行だけでなく、そこに至るまでのアメリカの、EUの、そしてウクライナのやったことも見なければならないだろう。単にプーチンを非難することで戦争が止まるとも思えない。だが、こんなことを言うと、ヒステリックに悪の側に付くのかとわめきちらされ、陰謀論だと馬鹿にされるというのは一体どういうことなのだろうか。リベラルと称する連中があっさりと単純な二元論にはまり込んでいく姿を見ると、もともと信用していないとはいえ、軽い驚きを覚えてしまう。無意識の翼賛体制が出来上がっていくのを、今、まさに目の当たりにしているというわけか。
ワクチンについても同じような感触を受ける。あんなものは毒だ、と切って捨てる反ワクチン派と呼ばれる人たちの自信がどこからくるのかよくわからないが、かといってたいした治験もなく、副作用の強さが喧伝される中で、ハイ、そうですかと素直にシャツをまくり、腕を差し出す気にもなれない。ほとんど決まった人間としか顔を合わせないような生活をしているから、結局、ワクチンは打たずにここまで来ているが、これがもし都会の人混みの中での生活だったなら、一体、どんな選択がありえたのだろうか? わからなさを抱えたままに、結局、同じような選択をするのだろうとは思うが、まわりからの無言の圧力のようなものをここより強く感じることになるのだろうか。
色々、考えが巡るがそれが整理できず動き出せない。
普段の仕事に拘束されているときには、時間が空いたなら、あれをやろう、これをやろうと色々思いはするが、いざ時間が空いた時には、なんとなく疲れているのか何もする気が起きずにボンヤリ、ダラダラとしてしまう。その間に、ただやろうと思ったことばかりが重なり、溜まっていって、ようやく何かやろうかと思うときにはあれもこれもやらなければと考えて頭がザワザワと濁ってしまい、今度はそのせいでなかなか身体が動き出さない。二兎を追うものは、どころか五つも六つもことを追うから色々絡まって、またグズグズと時を過ごす。とにかくそんなときは変に理由を探して、理路整然とことを進めようとはせず、ほとんど当てずっぽうに、思いついたことに手を伸ばしていくほかない。それは汚れた部屋を片付けるようなもの。効率は悪く、なにか望んだ形が現れるわけでもないが、まあ、ひとつ片付ければそれだけ動けるスペースができるし、窓でも開ければ風も通るだろう、という感じ。ということで、ほとんど当てずっぽうに、今、ノートに向かって手を動かしている。後は読みかけの本を読んで、途中になっている映画の続きを観て。それから掃除、洗濯、普段は料理などやる気にならないから、残り物を取り繕って適当に食べるものを作り置きしておく。そうやってただ一日が過ぎていくだけ。