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現実の感触

 

手の感覚を感じながらことばを綴る、と書かれたこの文章も手の感触を頼りに綴られている。
手が動くことで初めてことばがある、という当たり前の現実について考えてみる。

今、多くの人はワープロ機能を使ってことばを書いている、というか書いていると思っている。
ワープロソフトを使い、キーを叩き、その結果として現れることばの連なりを液晶画面で眺めていると、どうしても書く、という意識より読むという意識に捉われてしまう。ことばの意味を追って、これでいいのだろうか? などと結論の出ない疑問に阻まれて、いつのまにか手は止まっている。
手元にあるすでにあることばをああでもない、こうでもないと弄り、並べ替える作業には向いているかもしれないが、果たしてそれが書くことなのか? という疑問は拭えない。そんな並べ替えの中から変化や新しい言葉は生まれてくるのだろうか?

実際にやることと理論との関係。
入門書を読むことだけで技術を習得出来ると考える人はいないだろう。実際にやってみることでしか技術は習得できない。見よう見まね、ということばがあるとおり、人は、他人がやるのを見て、倣って、やってみることで技術を習得する。

動いていく身体を拘束しようとするように理論の網を被せるようとする人がいる。あるいは理論という地図を広げ、その上を忠実に歩むことが正しい在り方なのだとする考え方。だが、理論通りにことが運ぶなどということが、実際に起こり得るのだろうか。結果的そんな風に事が運んだように見えるときですら、実践の場では全く違った現実がある。事後的に外側からただ眺めているだけならなんとでもいえる。今、こうして手を動かしている場ではその感触がすべて。理論の入り込む余地はどこにもない。

現実をことばで言い表すことに意味があるか? ことばはどこまで行ってもことばでしかなく、ことばが現実に取って代わることはない。理論という物語をなぞることで現実が変わることはないし、物語に没入することは現実から乖離していくことでしかない。挙句の果てに、霊的な力が現実を動かすなどと実際に動くことにはまったく役に立たない世迷言を言い出すことになる。こういうことばは記憶に残らない。ああ、面白かったと消費して、ただ忘れてしまうだけだ。

それでも、ことばをきっかけに実際に手を動かしてみるということはある。
他人の行動を縛るようなことばでなく、あくまでも、やってみることのヒントになるようなことばが好ましい。
壮大な物語ではなく、例えとしての断片。きっかけにはなるが、いつしかそこから離れていき、自由になれるようなそんなことば。
一つ一つの動作を手取り、足取り指南することですら、それは一つの例えでしかないだろう。例えの集積が技術そのものに到達するわけでない。全体を理解したときにはじめて技術は習得される。だが、全体を語ることはできず、いくつかの例えを通して覚えていくほかない。身体を通して感じられる柔らかさ、身体を支えている息。感じ、修得すべきなのはそんなもの。別に誰にでも感じられる身近な感触だ。

情報や科学技術はますます実践の場を被いつくし、その感触をないものとする。だが現実を消し去ることなど誰も出来ないし、ましてや思うように動かすことなど誰にもできない。
益々、世界は悪くなる。その流れに抗おうという意志もまた、身体を縛ろうとする力でしかない。