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戻る動くこと、移動すること。
いつもの生活のルートを幾分か逸脱して、知らない場所で、知らない人とすれ違いながら、目的もなくただ街中を歩いていく。
ふと、ベンチに腰掛ける、あるいは見知らぬ店に入りコーヒーでも飲むか、それとも電車の窓から行き過ぎる景色をぼんやり眺めているか。そんなとき、空っぽの身体のなかで言葉が巡る。なんとなく、今やるべきこと、次に向かう場所が見えてくる、ような気になる。
別に特別なことではない。こんなことは誰もが多かれ少なかれ、日常の中でやっていること。移動だの、旅だのというほどのことでもない、ただの散歩程度のことだが、それでも、そんな風にしてただふらふら、ぶらぶらと歩きながら目的を持たずここまで動いて、道を探りながらやってきた。
もう十年以上、同じ土地、同じ場所に住んでいる。そんなに長い間ひとつ同じところで暮らすことは初めてのことだ。動けない、という現実的な事情もある。動く、ということに対する疑い、あるいはそれほど興味がなくなったということもある。動かずして、動くこともできる、というやり方を覚えたということもあるだろう。なにはともあれ、同じ場所で暮らしながら、ときにはそこから逸脱してふらふらと歩きながら、今の生活を続けている。
ある土地や町が面白かったり退屈だったりするのは、個人的な思いや立ち位置によるものが大きいのだろう。その個人的な層とは別に、その土地の歴史や変化を見て以前より活気があるとか、衰退しているとか、言って言えないことはないのかもしれないが、そんなことを言ってどうなる、という思いもある。仮にその土地がつまらなかったり退屈だったりしたとしても、人にはそれぞれ事情があるのだからその退屈さの中でなんとかやり繰りして生きていかなければならない。ここ何年かはそのやり繰りの仕方の方に興味は向いていた。その逆に若いときはこのままここに居ては自分が足元から腐ってくる、というような強迫観念に駆られては移動を繰り返してきた。その思いのほとんどが若いものに特有の神経症に過ぎなかったとしても、止むに止まれずそこから動かなければならないという状況は、誰であっても起こりうることだろう。
十年前、東京から今いる場所へ移ってきた。そのときの東京はまだものと人が溢れているという感じだったが、そのほとんどのものが自分には必要のないものだとしか思えず、人との関係も途絶えるような時期だったから、ただそこから離れるという思いで今の場所へと移動した。
今、時折東京に行っても十年前のように人と物が溢れているという感じを受けない。もうすっかり没落してしまった国の首都といった趣の、なんの面白味も感じられない街という印象しか持てなくなった。もうそこは無目的にフラフラと歩こうと思える場所ではなくなっている。そんな風に動いても何の発見もないことがわかっているから。用がない限り行かない場所。それでもまだ、たまにでも用があるのだから幾分かは他とは違う場所ではあるのかもしれないが。
国内に限っていえば、どこに行っても同じようなものだろうという思いがある。同じような平板な風景が横たわり、矛盾は隠蔽され、あるいはわかっているが気づかぬ様を装って日々をやり過ごす。
そんな中で、今、現実が隠れようもなく露わになっているのは沖縄だろう。島の中心部に陣取り、すべての流れを遮る他国の軍事基地。そこから溢れ出す暴力。貧困、搾取、前近代的な主従関係。弱いものがさらに弱いものをたたく悪循環。差別、植民化。海という壁に囲まれることによる圧倒的外部からの無関心。沖縄の現実は、そのまま本土の姿を現わしてもいる。沖縄にいれば嫌がおうにも意識せずにはいられない現実を、本土では気づかずに日々をやり過ごすこともできる。本土から沖縄は遠く、沖縄という現実から離れ無関心でもいられる。沖縄を踏みつけ、悪びれることもない。しかし翻って考えてみれば、その沖縄の姿はそのまま本土の姿でもある。ここからアメリカは遠く、アメリカの市民が日本の現状に思いを馳せることなどほとんどない。アメリカが日本を利用し踏みつけても、彼らにはその意識も自覚もないのだろう。そして本土の連中もまた自分たちがアメリカに占領され続けているなどという意識もない。その現実を被い隠すために沖縄にすべてを押し付け、踏みつけ、排除し続けるこの悪循環。
戦後、経済成長にうつつをぬかし、いまだ独立、自立は遠い蜃気楼のまま。いや、もともと自立、独立など誰も望んでいないのか。天皇という依存の対象がなくなり、そこにアメリカが位置したから、むしろ依存の対象としてのアメリカがいなくなっては困るというのが今の多数派の心理なのだろう。だがいつまでアメリカが確たる依存の対象であり続けるだろうか。戦争で天皇が敗北したように、アメリカだっていつまでも今のままでいられるという保証はどこにもない。世界のパワーバランスは変化している。嘘しか流さないニュースを毎日見ているだけではそのことに気づくこともできないだろう。
相手に銃口を向ければ、相手もまたこちらに銃口を向ける。この武力の威嚇の果てに、嘘と挑発で戦争がはじまる。
今は武器を増やすのでなく、ひとつひとつ減らし、銃口を下すこと。自分だけでなく、相手にもまた銃口を下すことを要求しなければならない。それにはしたたかな交渉が必要だ。もちろん、そんな他者とのやりとりが嫌だから戦争をしたがるのはよくわかるが、それができないなら、このまま破滅に向かうだけだ。
本土にいたって、日々踏みつけられていることにかわりはない。崩壊の只中にあって行動への機運は高まっている。