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戻る言いたいことは何もなく、特に書きたいこともない、とはどういうことか。
言いたいこと、書きたいこと、そんな風に言ってしまえばそれはメッセージということになってしまう。メッセージとはつまりことばの意味に縛られるということ。
こちらの意図としての、伝えたいことや、書きたいことではなく、こちら側の意識とは関係なく人と人の間で実際に伝わるもの、ここではそれについて考えたい。
言いたいことはない、といってもただ黙っていれば勝手に解釈され、囲い込まれ、いいように使われる、ということがある。それでは困るから、そこで相手の言葉を払うように、何かを言わざるを得ない。その場合のことばはどうしたって、あれである、これである、というような、何かを指し示すことばというより、あれでない、これでない、というように、意味づけられることを否定する身振りになるだろう。
最近では卑俗な政治の世界で、対案を出せ、などとヒステリックに叫ぶことばをよく見かける。あれでない、これでない、などと言ってただ否定するだけで何ら生産的な提案がないではないか、ということらしいが、彼らが本当に恐れているのはあれでない、これでないという身振りの向こうで見えてくるけっして埋めることのできない穴、闇、沈黙なのだろうと思う。個々の場所で具体的に物事を解決していくことはもちろん大事。だが万人に共通する具体的な提案、政策、あるいは理念などといったものは存在しない、というだけでなく、見せかけの解決案は、いつでも他者への抑圧の装置として機能する。対案を出せ、だって? そんなものありはしないよ、としか答える気はないから、まず政治家になれないな。それでも否定の身振りとしての、政治、は残るだろう。それは抑圧に抵抗するための直接行動としてある。見せかけの議会政治に頼っている間は、世界は停滞したまま、ただ崩れ落ちるのを待つだけだ。
あれでない、これでない、という身振りの向こうで揺れ動くもの。それは名指すことに意味がるだろうか? 他者、物自体、存在、あるいは霊とでもいうのか、それぞれのことばの意味に引きずられてそこで築かれる体系に幾分かの違いはあっても、それは結局、同じ表れのバリエーションに過ぎない。そうやって名指し、閉ざすことで理論は理論足りえる。
しかし、理論は現実を変えない。後から、未来を予見していたとかなんとかそういう猿芝居を続けることで、商売を続けられるのかもしれないが、結局、それはただの娯楽以上のものにはならないだろう。
理論書を読むだけでサッカーが上手くなれば選手も苦労しないだろう。身体を動かすことではじめて技術の習得があり得る。
理論をめぐってああでもない、こうでもないと議論し続けることに生きることはまるで関与することがない。知識に、そしてことばにいかに身体性を回復するか。そもそもそんなことができるのかもよくわからないまま、キーを打つ手は動いていく。
ただ自由にやればいい、というだけでは不十分であることはよくわかっている。好きにやれ、と言われれば途方にくれてしまうというのが人の常だろう。
書くことに関しては、他人のことばをなぞり書くことからはじめるのはひとつのやり方かもしれない。それが読むことだ、といえば確かにそうかもしれないが、やはりただ読むだけでは不十分で、そこに手を動かすことがなければなにもはじまらない。他人のことばをなぞるのは、その型を習うことではない。ある感触を得ること。その感触をもとにこんどは自分でやってみること。その繰り返しのなかで型を逸脱していく。