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戻る沈黙の前で、上手く振舞えない人がいる。
沈黙に耐えられず、その沈黙をことばや音で埋めようとする人。あるいは沈黙を壁に見立てその内側でひたすら自分の殻に閉じこもる人。沈黙は、もちろん完全な無音などではないし、真っ暗な闇でもない。耳を開けばそこには日常のあらゆる音が溢れているだろうし、目の前の視界は別にその沈黙によって歪み、遮られるということもない。
沈黙の前でいかに振舞うべきか? 何も特別なことをする必要はない。視界をやわらげ全体を眺める、あるいは聞こえてくる音をただ聞くでもなく聞いてみる。別に無理に話すこともなく、あるいは話すことを躊躇する必要もない。思いついたことばをあてずっぽうに口に出してみるか、あるいは浮かんだことばをやり過ごしただ黙ってみるか。その間もきっと身体は何かを見ている。その見ているという意識もないまま見えているものが、もしかしたらこの世界、この現実なのかもしれない。
見ている、と意識が昇ってしまえばとたんに壊れてしまう、ただ目の前にあるはずの世界。
いまではすっかり有名になった中上健次の生原稿というものがある。
中上は小説を書く際、その原稿を一気に書き上げるらしく、確か本人の発言として、四十八時間で五十枚の短編を書き上げたと言っているのを読んだことがある。その四十八時間の間は食事も睡眠も取らず、巫女のごとくあるいはシャーマンのごとく一気呵成に書き上げるというのが中上健次の書くスタイルのようだ。
さて、そんな話を聞いてイメージしていたのは、漠然とした、速さ、であり、激しさであったりする。過剰なほどの集中力であったり、何か狂気に似た能力、鬼気迫る雰囲気、とそんな風に書いてみるといかにも通俗的なイメージではあるが、あまり何も考えずそんな風に思っていたのは確かだった。
そこでその中上の生原稿の写真を眺めてみると、そんな安易なイメージとは齟齬があるように思える。一種異様な、などとも称せれる中上のその独特の文字の羅列は、速さや激しさより、むしろ遅さや静けさを連想させるように思えるが、どうだろうか?
次々と頭に浮かぶことばを一気呵成に走り書く、あるいは殴り書く。文字にすることももどかしいほどに頭の回転は上がり、手は必死にそのことばを追いかけて動いていく。話しとしてだけ聞いたいたときには勝手にそんな様子を浮かべてはいたが、実際の中上の文字はむしろ一文字、一文字じっくり、じっとりと強い筆圧で何かをなぞるように書きつけられているように見える。
村上龍の生原稿というのも雑誌で見たことがあるが、むしろ村上の文字の方が、走り書きに近いような筆跡で、その手の動きの速さを想像させる。そういえば村上も中上と似たような話しをしていて、何百枚の原稿を一週間だか十日で書き上げたと話していて、それを聞いた大江健三郎がそんなに乱暴に書いて、良い小説が書けるわけがないと窘める、というか村上が怒られているようなことばを読んだ記憶があるが、もちろんここで見ているのは、結果として原稿が書きあがるまでのスピードではなく、文字を書き、線を辿るその手の動きのことではある。
中上は、書き始めるのに時間がかかるが、書き始めると止まることなく一気に書き上げる(柄谷行人)らしいが多分それは本当のことなのだろう。原稿を見る限りは多少の手直しはあるようだが(それもきっと後から入れられた手直しのように思える)ほとんど淀みなく文字は進んでいっているように見える。そう考えたとき、五十枚を四十八時間で書くということは一体どういうことなのだろう? と疑問が湧く。 単純に考えて一枚、一時間である。もちろん手が動いていない時間も少なくはないのはわかるが、それにしても一行書いては立ち止まり、また一行書いては立ち止まり、というのではなく、この繁殖する植物のような文字列を見る限り、手はある程度長いスパンで動いているように思える。であるなら、そのときの手の動きはやはり相当ゆっくりとしたものではないか。その遅さ、何かをなぞるように進んでいくその手の動きに今は興味が湧く。中上が辿った文字列を眺め、その手の動き、その遅さを思うときなんとなく書き手が見ている先がわかるような気がする。見ている先とは、書き手の思想や意志、作品への意図、といったものではなく、書く姿勢、世界と向き合う様、多分そんなものだ。
今、この文章はコンピューターでワープロソフトを使って書いている。当然、キーボードをたたくにも手が動いているわけだが、なかなか手の動きというものを意識しながら書くのが難しい。どうしても手を動かすことより画面に次々と打ち出される文字を追うことに意識がいく。キーボードに打ち込み、文字の羅列が画面に映し出されるという一連の行為は、既存のことばを並べ変えることには長けているのかもしれない。何度もやり直し、並べ替え、ことばは悪いが理屈をこねくり回すことに向いているのかもしれない。しかしそんなことをやっているうちに自分が何をしているのかわからなくなっていく、というのが結局、行きつく先ではないだろうか。自分の書いたことばから逸脱していくことすら難しく、何度書いても同じことを繰り返しているだけのような気にもなる。それが嫌になって、WEB上に文章を上げることもしばらく、やめてしまった。またこうして文章を上げているのは特に目新しい考えややり方があってのことではなく、まあ、ただ、なんとなくのことではある。またはじめようとはずっと思っていたがコンピューターの調子が悪く、最近になってようやく買い替えたからというのが、まあ、本当のところではある。
中上について書いていておいてなんだが、この文章は一気に書き上げられてはいない。ひとつのセンテンスは比較的短い時間で書かれてはいるが、手が止まると碌に読み返すこともなく放っておき、また気が向いたときに読み直し、次に思いついたことをまた少し書く、という感じで、割とダラダラと時間をかけながら書いている。一か月に一度くらい上げればいいかと思っているから、その一月の間で時間が空いた時に少しずつ書くというスタイルか。この一か月に書いたメモの集積。ここでの文章も一度、手書きで書いて後から文字に起こしてみるか、とも考えている。
今月はこんな感じ。