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狂え、狂え、もっと狂え

誰もが何でも知り得る、そんな時代。
このページで、どこにも書かれていない有益な情報得る、ということはもちろんできない。あるいは博識な知識人のごとく、この時代を生き抜くための高尚なメッセージが発せられるということもない。
ここでやろうとしているのはあくまでも手を動かすことの実践。その結果として綴られる影のようなことばがここには残るだけだろう。
手本の動作をながめてものを覚えようとする、という経験は誰にでもあることだと思う。他人の手本になれるような人間ではまったくないが、例えば他人の動作を眺めているときに何かを感じるように、ここでのことばが読まれないだろうかとは思っている。
知識や情報ではない、人と人とのあいだを直接行き来するもの、それはなんだろう。そして、そうやって人に伝わっていく何かをどう表現したらいいか。
ことばに意味を読み込もうとする姿勢は愚かだ。ただことばを読むこと。そのことで聞こえてくる音を聞き、感じられる絵を思えばそれでいい。そこから読むことで得られた感触が身体にじんわりと残っているのに気づくことは難しいことではない。人はその感覚からはじめてそれぞれまた違った道を行けばいい。ことばを読むとはきっとそういうことなのではと今は思っている。

誰もが何でも知り得る、というのは本当のことだろうか。確かにわからないことを思い立ってwebで検索すれば即座に答えが返ってくるという状況は、今までにはなかったことだ。
ただこの場合、人は自分が知りたいと思ったことしか調べない、知ろうとしない。ということはよく言われることだが、そのネットで知り得た情報だけで何かをわかった気になるなんてことがあるのだろうか? 現実を生きるためにいくらか役に立つ、情報なんてしょせんそんなもの。それ以上の何かを求めようとするなら、追えば追うほど遠ざかるだけのような気がする。何でも知ろうとするのでなく、わからないことをそのままにしておくこと。大事なのは「わらないという理解の仕方」と書いたのは高橋悠治。その余白や空白のような静かな理解の仕方を奪われた結果、人は猛り、争い、諍い、あげくに戦争が起こるというのも必然の帰結ということなのかもしれない。

今、世界のためにやれることは何もない。何かのためになると思って動いた結果として今の暗い世界がある。そこから自由になりたいなら、それとは違ったやり方で動いてみることだ。
理論や構造、あるいは言葉の意味より一歩前へ。そこから何が見える? そう確かに何かが見える。見えるという思いに捕らわれる前に
見える、見ているという現実だけがすべて。見た、見えた、反省的な思いを常にかなぐり捨てながら。角を曲がる。いや、それも確かなことではない。常に揺らいでいる持続を保ったまま。進む、進んでいる。書きつけたことばにとらわれず。どこに視線を合わせるか、そんなことも常に探り、試しながら。狂え、狂え、もっと狂え。ことばに、世界にとらわれないために手を動かし、書き続ける。