sealdsのメンバーである若者がフジロックフェスティバルに参加する、というニュースを見たときには、ロックフェスティバルで一体何をするのだろうと思い、何万人もの観衆のいるステージに現れて、みなさん選挙に行きましょう、とでもアジテーションするだろうかと想像したのだった。
よくよくニュースを追ってみれば、フジロックといってもコンサートばかりでなく、トークイベントなどを催すステージもあり、sealdsの若者たちはそのステージでのイベントに招かれ参加するということで、自分の想像がまるで的外れであることを知る。
考えてみれば、フジロックというイベントの名を耳にすることはよくあるけど、本当のところはどこで何が行われているのかよく知らないし、わかってもいないということに過ぎない。
さて、そのsealdsの若者がフジロックに出るというニュースが発表されると、「音楽に政治を持ち込むな」といった声が上がり、それに対する反論もいくつか出るといったことがあったようだ。で、そんないくつかの記事を読んで思ったこと。
音楽と政治という文脈とは少し離れるが、今、音楽に人々は何を求めているのだろう?
何万人もの観衆が歓声を上げ、身体を揺らし、歓喜するという映像を目にする限り、そこにあるのは熱狂、陶酔、忘我、忘却、といったところか。誰もがこの日常から離れて、それとは違う非日常を求めている。
もし、そんな場所で改めて日常を突きつけるようなことをすれば、それはまあ場違いだと言われるし、その場にいる観客から反発も出るということなのだろう。逆に言えば、そんな場所でどんなに音楽に政治的メッセージを注入したところで、状況は何も変わらないのではないのだろうか。ちょっと歌詞をモジって政治風なメッセージを発したところで、音楽に向かう姿勢が変わらない限り、この世界が変わることはない。
今、あるべきなのは、覚醒の音、目覚めの音楽ではないだろうか。閉ざされて、硬くなった心と身体を開放する音。しかし、こんなことばをここに書きつけることもただ虚しい。現実はますます悪くなるばかり。
みんなどこに向かおうとしているのだろうか。色々なことがわからなくなる。他人の声がどんどん遠ざかる。
目覚めを促す微かな音も、轟音に紛れてどこからも聞こえてはこない。(2016.07.05)