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夜の子供

もう真冬だというのに湿気の多い日。林の中も息苦しいほどに湿り気に満ちている。
夥しい数の痩せ細った針葉樹がびっしりと斜面に植えられた場所。
日も射さず、風の通り道すらない。山の麓からはじめて、一本、一本と少しずつ木を切り倒しながら地道に斜面を上がっていく。
身体に熱が籠り、息が上がる。少し立ち止まって、息が整って来るのを待つ。
まとわりつく重く湿った空気が煩わしい。この林だけを考えたって、山を健全な形に保つことは本当に地道な作業だ。この地域の山すべてを手入れするなどと想像をめぐらせれば、気が遠くなるばかり。
それが金になる、ということ以外に、人間の都合で荒らされ、放っておかれた山を健全な形に保とうなどと考える人間は一体どれだけいるのか。あるいはそんな風に考える必要はあるのだろうか。
山などほっておけば、そのうち勝手に自然に還ると石原慎太郎はいったらしいがそれはそれでひとつの考えなのかもしれない。それくらい山はもうどうにもならない状態になっている。山が自然に還りバランスを取り戻すとき人間はまだ生きているだろうか?
そんなことを考えるでもなく、ただ思い巡らせながら木を一本、一本と切り倒していると、あるとき、すっと風が林の中に吹き抜ける。振り返ればところどころ日の射す場所が出来上がっていた。乾いた風を感じてほっとひと息つく。息をついたのは森か、あるいは人間か。

原子力に携わる仕事にきっと未来はなくて、それでもその仕事は今後も必要とされているのだろうと思う。放射性物質を管理し、それについて研究することは敗戦処理とでもいうべき作業になるのだろうけど、林業もまたその作業が敗戦処理化して久しい。今の林業が莫大な金を生むということは今後もないような気がする。もし山の木が金になるとなったら、また山は荒れることになるだろう。今の山の状態を生んだのは、金になるからといって後先考えず、やたらめったらに木を植え、ほったらかした結果なのだ。
そこに崇高な理想やもっともらしい目的を持ち込む限り、その希望は跳ね返され絶望を生むだけだろう。結局、自然は人間の思う通りにはならなかった。我々はもうもっともらしい理想や目的を当てにすることはできない。できることは、ただ身体を動かして、一本、また一本木を切り倒すことだけだ。
それで何になるのかだって?、少なくともそこに風が通る。息をつくことはできる。

ボクらは夜の子供。日の光に照らされた目に見える希望や理想を当てにすることはできない。月の光に照らされて見えるわずかな視界の中で、闇の向こうの息づかいを感じながら明けない夜を生きるほかない。その為の術は、知識や情報では掬い取れない。この社会に引きこもっていないで、わずかな光が射すだけの闇の中を手ぶらで歩いてみればいい。すぐに、普段は忘れられている感覚が開いていくのが誰にでも感じられるはずだ。

技術を競うことにはもううんざり。誰が上だの偉いだの、そんなことを言っている間に世界が崩れ落ちていくことになぜ気づけないのか。幸か不幸か嫌でもいずれ夜は明ける。そのときには誰もが理想や目的がすべて虚栄が作る蜃気楼に過ぎないと気づけるだろうか。夜が明けても目的や理想を追い求めることはない。
その意味でボクらはいつまでも夜の子供、夜に生まれた子供であるほかない。

夜に生まれた子供たち、静かに眠り、静かに怒れ(秩父前衛派のうた)
(2016.01.05)