「奥多野のオク」の中でいまだ空白になっている「特集」ページの記事を今作っている。それは二人で話したものをレコーダに記録し、文字に起こして記事にするというものなのだが、その過程でその録音された会話を否が応でも何度か聞くことになる。これを書いているもう今は、だいたいの文字起こしを終えた段階で、もう何度もその録音を聞き直し、もう聞くことにも飽きて、しばらく聞きたくない、というくらいの状態なのだが、それを録音された直後にはじめたヘッドホンでその記録を聞いたときの体験は面白かった。
そこで話されている内容云々という以前に、そこに記録されている音の数々がとにかく聞いていて飽きることがなかった。
レコーダのノイズ音が通奏低音のように鳴り響く中で、いくつものささやかな音が存在し、空間を彩る。流しで水の流れる音や、ポットでお湯を注ぐ音。パタン、パタンと扉の開閉音が少し離れた場所で鳴り、ドタドタと床を歩く音が聞ける。カッチ、カッチとライターを鳴らす。息を吸い、息を吐き、カタカタとものが触れ合う音は何の音だろう。咳払いをし、鼻を啜り、話しの合間で少しため息が出てしまったり。コツコツ、コツコツと時計の秒針は進み、ガサガサとゴソゴソと音がした後には、ポリポリとせんべいを齧る呑気な音も流れてくる。もちろんそこに話すものの声があり、息があり、そしてところどころに挟み込まれる意図せぬ沈黙。それだって無音であるわけではなく、レコーダのノイズがザーと鳴り続けている。
三時間以上の記録を、結局、一気に聞き続けてしまった。とにかくそこに収められた音が面白くて、その音を聴きながら時折笑いすら浮かんでくる。
と、いうような音の一切は文字に表すことはできない。当たり前のことだが文字に起こした時にはただページ上に文字の羅列が並ぶだけ。文字で沈黙を表すことができるか? 行間に「ここで沈黙」などと書いてもただ馬鹿らしいだけだ。ことばとことばの間合い、話すものの息づかいも文字にすることで全てが抜け落ちる。
その場で誰かの話しを聞くことと、それを文字に起こして読むこととはまったく別物なのだ、と割り切ってはみてもそこからさらに困難は続く。
その場の話し言葉を書き起こすと、今度は書き言葉としての粗さや曖昧さが目に余る。それを読む言葉として見てみると途端にリアリティーに欠けたものに映ってくる。普段、いかにいい加減で適当に話していることかと感じる、というよりは結局、話し言葉と書き言葉はまったく別のものだということを実感するということになる。
後から手を入れなければ読めるものにならないのは当然としても、やはりどこまで手を入れていいものか? とは考えるところではある。その過程で、二人で話している内のひとりが、それを再構成し編集するということもあまりよくないことなのだとわかってくる。どうしたって、片側からその会話を見ることになり、公平や中立がただの欺瞞だとしても、話し手のひとりが構成して果たして面白くなるか? という気はする。
言葉を書き足す時にも、その話し言葉風にしたてあげられた書き言葉に対する違和感は拭えない。小説など読んでいても、格好に括られた会話文が何となく空疎な気がするのは、結局、書き言葉と話し言葉の断絶が横たわっているということなのかもしれない。
こうして人と話し、記録して、それを構成するという作業を続けているなら、話す時にすでに書かれたことばを意識して話しをするという習慣が強くなってくるかもしれない。あ、この言い回しは書いた時によくわからないな、とか何とか思ってしまうということもありうることだろう。話しことばが書き言葉に縛られていく。
今の時代、多かれ少なかれ話し言葉は書き言葉に縛られている。だが、そう認めてみても、あの、最初にレコーダーに記録された音を聴いたときの感触がなくなるわけではない。様々な音に囲まれて交わされた会話は単にことばではなく声でもあった。どんなに話すことが書き言葉に制約を受けたとしても、そこに声がなくなることはない。
そう考えると話し言葉が書き言葉に囲い込まれるという事態とは逆に、書かれたことばを声や音の方に開いていくということも可能ではないだろうか。ことばを積み上げ堅牢な建築物を造るのではなく、書けば書くだけ、その言葉の合間に息が通り、風が抜けるような、そんな自由な言葉はありえるだろうか?(2016.02.05)