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オソル、オソル

選挙に行けば何かが変わるという人がいる。
本当だろうか?
例えば現政権が変わるとして、それでどうなる。
今の政権は確かに酷いが、他の顔ぶれだって変わるところはない、という話しではなく。
中国とあるいは韓国、北朝鮮とどう付き合うかという以前に米国という厄介な相手とどう対話するのか。
あるいはまったく機能を果たしていない司法制度ですら違憲状態(しかし、違憲状態とは何なのか?)と言わざるおえない選挙制度を変更する、というのも確かに必要なことではあるだろう。
選ぶ、選ばれるという差別的な行為の中に偶然性を取り入れる為にくじ引きで代表者を選ぶとか。
しかし代表者とは一体何者なのだろう。
そんなことを言っている間に借金は一千兆円を越えるという。守銭奴たちが天国に積む銀行券がただの紙くずに変わる日も近いのかもしれない。
それでも選挙には行かないより行ったほうがましだと言えるのだろうか。
選挙に行かないのは、現政権の政策を無条件に肯定することになる、というのは本当か?
沈黙を勝手な解釈で塞ぐという振る舞いは、権力にしがみつく連中のそれと変わるところがない。

とりあえず仲間達とホームページでもつくって文章でも載せてみますか、ということになった。
特に目的もなく、足取りもままならないまま、恐る恐る歩き出す。
文章を書くだけでなく、他にやってみたいこともひとつ、ふたつ思いつかないでもないが、今それを言ってしまうと、それを目標に動かなければならなくなるから、今はまだ言わないでおこう。
こんな文章を書くことですら、一体どこまで続くのか?という状態なのだから。
それでも、ともかくやってみることは大事なことだ。

ある音楽家がどこかで言っていたか書いていたことば。うろ覚えだけど書いてみると、
必要だからやる、というのは結局資本主義の考え方。だったらこっちはまったく必要とされていないことをやってみる。あるいは、社会が働くことが正しい言うなら、その反対に徹底的に遊ぶこと。お金だってじゃんじゃん浪費する。
確かにそれはその通りだと思う。とはいえ、いかに遊び、いかに浪費するかは知恵を働かせなければならない。 働かないのはいいが、部屋に引きこもっていては仕方が無いし、遊び、浪費するといって大晦日の夜に街中で騒いでいるようではあまりになさけない。
そんなこの社会のどうしようもなさとは無関係に、この奥多野チベタンクラブの活動が、遊び、浪費する実践になればそれはそれでよいことだ。
理論を闘わしていても仕方が無い。相手に伝えたいなら、実際にそれを示す事が必要だ。
いや、必要が悪だというなら、相手に伝えようという意思すら邪魔なものなのかもしれない。

とりあえずはじめてみること。ふらふら、よろよろ、はじめはオソルオソル