この場所で、何が出来るだろう。この場所から、
特別なものは何もない。
他所と何も違わない、ありふれたこの場所から。
未来は誰にもわからない。
そして人が認識する現在が、すでに過去でしかないなら、
生きる指針は過去にしか存在しないだろう。
ではどうやってその過去に触れあうか、過去から学ぶか。
谷を抜け、山を伝い、人はどこへでも移動してきた。今とは違う時間を生きていた彼らは、
何日もかけて他所へ向かって歩き続けていたのかもしれない。
山道を歩いてみると、そこここに、大小様々な祠を見つけることができる。
それがどこかへ向かう道の途中なのか、あるいは斜面に作った畑で作業する合間になのか、
生活の形態は違えど、人はその祈りの場所で静かに手を合わせてきた。
そんな人たちの足跡を辿ることで、彼らの祈りの形を感じてみる。文字通り彼らの祈りの形を真似てみる。
道を歩き、森の中の様々な音に触れ、他の生き物の気配を感じながら、
汗を流し、あるいは寒さに震えながら、その時々で祠に手を合わせる。
真似ぶことは学ぶことでもある。
もしそこで受け取るものがあるとすれば、当然それは技術や方法ではない。
技術や方法を重視すればそこに権力がうまれる。
技術や方法は所詮相対的なものに過ぎない。だが、近代社会に慣らされた傲慢な人々は、
それを唯一絶対的なものだといって、全世界に押し付け、抑圧してくる。
祈りとは、技術や方法が世界を被うことはないと悟ったものが、
生きていくための世界に向けた姿勢ではないだろうか?
もしそれを感じることができれば、その生活の中の姿勢こそが技術や方法を導き出すことがわかるだろう。
この奥多野という場所でも、人はそれぞれのやり方で生きている。
そんな違った生活を報告することで、
そこに流れる、世界に向き合う姿勢が読む人に感じ取ってもらえるなら、
それはひとつの喜びではある。
(友達とやっていたブログ「奥多野チベタン通信」より転載)