仮にも「長」と名のつく役職とは組織の中の代表、あるいは責任者であることを意味するものだろう。となれば一つの部なり課なりに何人もの部長、課長が存在するとすれば、それはまったくわけのわからない現実だ。代表が何人もいるような組織に対して、外部の人間はどう交渉し、話しを進めていくべきか見当がつかないだろうし、さらに責任者が何人もいるということは結局誰も責任を取らないということにも成りかねない。
社長、専務、常務、部長、課長、係長。それぞれその名に伴う仕事がありそのことではじめてその役職が必要とされるのがすじというものだ。だがあるとき実際の仕事を離れて名前だけが一人歩きしはじめる。
つまりこれはもう江戸の頃から変わらぬ身分制度なのだ。あるいは、それは下からは決してものを言えぬまま負け戦を続ける昔ながらの軍隊にもなぞらえられるだろう。
こんなことをいつまでも続けるなら、その中での人間関係がどんどんいびつになるのも、当然のことだ。
取締役がいて、従業員がいる。そもそもそれだけが法律上の定義らしい。社長、常務、専務、いずれも法律上では規定のない俗称に過ぎない。役職としてのそれらがあってもおかしいことではない。だがお互いを社長、課長、部長、などと呼び合うことはもうやめたらどうなのだろうか?それぞれがそれぞれを名で呼び合い仕事をすれば、それだけで組織の中の空気は変わる。この日本の会社の中で他の従業員から名で呼ばれる「社長」はどれだけいるだろうか?
もちろん稚拙な身分制度がいつまでも続くことにもわけはある。結局、人と人との間にある不可思議なズレ、対話の困難を避けるために固定化されたシステムが必要とされるのだ。それを必要とするのは身分に居直る人間だけでない。権力の横暴に抑圧される側もまた同じなのだ。組織を変えることより、どこかで被害者意識にすがりながら無責任に居直ることを選ぶ愚民たち。自らのちっぽけな居場所にしがみつきながら。
資本や経営、国家が悪で、労働者や市民が善であるなどとは当然言えない。
お互いがお互いにもたれ合いながらシステム全体が確実に沈んでいく。
ひとつのことをそれぞれがそれぞれでありながら一緒にやる。それが共同作業というものだ。自分の身分、あるいは相手の身分などにこだわっていては一緒に仕事はできない。つまり一緒に協力して仕事をするということはそのまま組織を変革する方向へ進んでいくはず、そんな風に考えていた。だがこの五年、その方向に道が開けていくことは結局なかった。
組織に怠惰にもたれかかるっているのは、「会社」に手厚く守られている人間だけではない。悪くなる一方の現状の中で、気づけば誰も彼もが「私」という架空の部屋に閉じこもり、ただただ自己保身に身をやつす。1+1=2にすらならない。なぜなら1である「私」とは所詮は幻、ありもしない幻想でしかないのだから。
そうではなく常に流動的に動く現実に合わせて動いていく。現実は誰のものでもないから、そこに「私」の入り込む隙はない。人から人に受け渡され、交換されることで、現実は常に揺らぎ動いていく。考えに閉じこもっている暇があるなら、目の前の人に一声かけてみたらどうなのか?
いや、それはまさに自分への戒めの言葉にもなる。ことばに縛られ声を忘れたことはなかったか?
ただ外から言葉を費やすことは誰にでも出来ることだ。だがそんな言葉はどんなに正しくとも現実にはたらきかけることはないだろう。
そうではなく、物事の内側に入り込み、向き合うことで動き出す身体、その結果として残される言葉の群れ。
そんな風にやれないかと常々思ってはいるが、それがなかなか上手くいかず、自分の状況の中途半端さも手伝って、ここでの更新もすっかり滞った。だが書かないことにも飽きたから、また試しにやり始めようと思ってこの文章を書く。
結局そんなことの繰り返しの中で道を逸脱していくほかないのだろう。中途半端さがいつまでも続くなら、今はそれをそのまま引き受けながらやるほかない。(2009/10/25)