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メモランダム


『片づけ』
中途半端な生活がいつまでも続いていた。
一歩踏み出すには丈が足らず、この場に踏みとどまるには嵩があり過ぎる。どうにもこうにも埒があかない日常が続く中で、生活は無意味に雑然としていくだけだった。ともかく身の回りを片付けることからはじめよう。実際、何年かに一度は、部屋の中を大きく片付けて、身の回りの細々としたものを新たに揃え直し、生活の風通しをよくすることをやって来ていた。だが今回はそれもままならない。なにぶん狭い空間の中でその都度だましだまし、物を脇によせなんとか、道を開け、風を感じて来た。だがもうそれも限界だった。いつでも直ぐに動けるようにと、持ち物は常に最小限に留めてはいたが、やはりその都度必要なものはあり、八年も一つところで暮らしていれば嫌でも物は増え、所々の汚れも避けようはない。結局、生活を片付けるためにはもう少し広い空間に出ることが必要だったのだ。
とまあ、結局何が言いたいかといえば、単に部屋を移り、引っ越ししたということなのだが、それはかなりの時間と労力を使う作業ではあった。
気分も新たに心機一転、という気がさらさらなく、上にも書いた通りどちらかといえば今までの生活を整理したい、変化というより今までの継続という感の強い移動に過ぎないから尚更面倒を感じることが多いのかもしれない。
ともかくそんな風にして日々片付けに追われている。今はまだ寝て、食べれて、すこしネットをいじれるぐらいな環境でしかなく、とても、書く、どころの日常ではないが、別に書くことは目的ではないからそれはそれでかまわないのだった。(2008-10-19)

『冬は来るのか?』
気温の高い秋、この温度は異常ではないか?
そんな風に回りのものに水を向けても、そうかなあ、という顔をするだけで一向に得心する様子がない。さっき作家の星野智幸が、この温度は異常だと日記に書いてあるのを読んで、ようやく自分の感覚に確信を持つ。結局さほど不快を感じなければ、地球温暖化もどこ吹く風、人間などこんなものなのか。
もう世を嘆くときは終わったのかもしれない。それほど状況は悪く、この社会は腐っている。後は崩れ去るのを待つばかり。それまで、せいぜい自分の利益だけを追求しておこう、というのが大半の人間の選択なのか?
それはそれで結構、だが自分では決してやりたくはない生き方ではある。
もっと別のやり方があると相も変わらず思っているのだ。(2008-10-23 )

『速さと、遅さと』
ひとつひとつの作業を速くやること。結局それはひとつのやり方でしかない。速さ、がもてはやされる社会とはやはり目的が設定された社会なのだろうと思う。
例えば今自分が関わっている弁当屋の仕事だって、ひとつひとつの作業が速い人が、仕事のできる人、ということになる。それは目的とする数値があり、それに向かって作業が形づくられるという仕組みがあるからに過ぎない。
だが、速さには結局限界があり、そこから見える世界は部分的なものでしかないのだ。ひとつの作業が速くできるようになる、しかしことをそこで終わりにするなら何の進歩もない。本当はそこから一つの作業をゆっくりとやることこそ重要なことなのだ。ゆっくりやることで何が見えてくるか、あるいは何を見るべきか。
ゆっくりやることで、今まで意識せずやっていた一つの動作がいかに複数の要素の絡み合いによって成り立っているかが見えてくる。いや、それは目には見えないが、ありありと感じることができないだろうか。それまで一本の線でしかなかった動きが、無数の点の集積によってなりたっている。それは映画のスクリーン上には一秒間に二十四の絵が畳み込まれているというように。だがこの例えは不十分だ。映画のフィルムは一枚一枚の絵の間を考えることは出来ないが、例えば時間の場合一秒間を無数に分割するということは一応理屈として考えうる。その無限の分割空間を理屈として考えることではなく、一つの動きの中でどう理解し、感じることができるか?
速さを求める社会は最終的には全てが規格化される他ない。なぜなら速さには限界があり、その限界によって、つまりは目的によって閉ざされているから。もちろん単に、遅さに、安住することに何の意味もない。それは単なる怠惰というものだ。ゆっくりと動いて見えたことを今度はまたいくらか速度を上げてやってみる。そのとき動きはいくらでもしなやかになってはいないだろうか?そんな風に繰り返し、繰り返しあらゆる動作を探索していく。この営みに完成はない。だが速さを求める社会に較べれば、遥かに自由があり、また困難も伴うだろう。
まあ、ともかく今後、ゆっくりやることをいくらかでも試みるなら、余計な苛立ちは減り、無用なケガをすることもなくなるだろう。
もちろん、失敗し、時には怪我することも必要なことなのだけれど・・・
ちなみにケガしたのは僕ではなく、友達の話です。 (2008-11-02 )

『旅の途上で』
今年はすっかりwebに文章を上げるということをやっていない。引っ越しの際にネット環境が変わり、以前のページは使えなくなった。あらためて過去の文章をまとめてwebページを作りたいと思っているが、それはいくらか先のことになると思う。今一番にやるべきことはweb作りではない。 では今は何をやるべきか?
それはかくがく、しかじかである、というようなこと、つまりは現実を言葉で定位してしまうということが、今は一番やりたくない。つまりは何も書きたくないのだ。それが、webに文章を上げていない理由。だがそれは別に悪い状態ではない。特に落ち込み、元気がないとかそんなことはまるでない。そして、別に「書くこと」は誰かに頼まれていることでもなく、職業にしているわけでもないから書かなくとも何の問題もない。
沈みゆく泥舟にしがみついている、端から見ればそんな風に自らのちっぽけな生活に閉じこもっているように見えるかもしれず、自分も他人がそんな風に見えることが度々で、何となく暗い気分になることがよくあるけど、少なくとも自分の生活を生きる内側からの感覚は、何かにしがみつくという感触ではない。それは絡まった物事を解いていこうとする行為の中で、危ういバランスを保っているというような感覚。意志の力を込めれば途端に全てが崩れ落ちてしまうというような。まあ、それはそれでまた危機的な状況であるのかもしれないけれど・・・
そんな状況の中で、重しになるような言葉を綴る意味はなく、それは却って自らの首を絞める行為なのだ。今はただゆっくりやるほかない。そして今しばらくこの状態は続くだろう。
変化の途上にある。そしていつでも変化の中にいた。
その意味では昔も今も、何ら変わるところはないのだろう。 (2008-11-10)

『他人のためのことば』
何のために書くか、それはもちろん自分のため。 2005年の冬、web上にことばを乗せるということをはじめたとき、確かそんな風に書きつけた覚えがある。なんとなくことのはじめにスローガンめいたものを掲げておきたかったのか、そのときも幾分青臭いと思いつつ勢いでそんな風に書いたような記憶があるが、単にそれだけではなかった。そのときはまだ、自分のためのことば、そんなものに対する欲望が幾分身体の中に残っていたのだった。
だが今はもう、そのこだわりはどこにも残っていない。
そして残念ながら、それは自らの力で欲望から自由になったというわけではなく、ただ単に全てが蒸発してしまったという方が正しいのだ。
自分のためのことば、何はともあれそんなものを探求するための理由がもう何もなくなり、自分が何も出来なくなった状態になってはじめて、自分のためのことばなどどこにも存在せず、それはただ単に自らのつまらないエゴが生み出す幻影に過ぎないと思いはじめたという具合だ。
我ながらやれやれと思わないでもない。
書かれたことばは他人のもの、そのことを今はそう言うだけでなく実感し実践できるような気になっている。そう気づいてしまえばその方が自由でありうるだろう。考えてみれば、よくわからずそれがあるかどうかも定かでない、「私」、あるいは「自分」に向けてことばを紡ぐなんて、苦行以外の何ものでもないという以上に、自らの首を絞める行為でしかなかった。
過去のこだわりにがんじがらめにされているような哲学や文学のことばを尻目に、もっとざっくばらんに言葉を差し出すことで新たな道を探ることができるだろうか?(2008-11-18)

(これは、部屋を越した関係で一時自分のページを閉じている間、そのつなぎのつもりで外部のブログに上げた短い文章をひとつにまとめたもの 2008.12.2記)