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海のない街で

その海岸線は突然目の前に現れたのだった。
いや、それまでも車はずっと海沿いを走っていたから、海は常にそこにあったわけだが、運転席から眺める限り、高い防波堤が邪魔になり海が常に視界の中にあるというわけにはいかず、そのときどき防波堤の切れ目からちらりとのぞく海岸線が目に入る程度のことだった。
それまでにもう十分海を眺めてもいた。その日は横浜から車を走らせ、横須賀に抜けそのまま海岸線を南下して目的もなくだらだらと半島の先へと進んでいた。途中何度か車を止め、ぼんやり海を眺めもしたし、岩場を歩きもし、もうそれで充分という感じだった。そしてそのときにはもう車の運転にも疲れていたから、そろそろ引き返すかと思い始めてもいた夕暮れどきだった。
ひたすら真っ直ぐに続いていた道が二手に分かれる。数メートル手前にあった標識によれば、右に折れれば市街地に戻ることになり、左へ進めばさらに海岸線を半島の先へと進む。さてどうするかと考える間もなく、それまで長く続いた防波堤の壁はそこで突然終わりになり、左手の視界が一気に開ける。そしてそこには広大な水の広がりと白い砂浜があった。

海がみたい、などといくらかキザなことを考えていたのは確かだった。十代、二十代を通しては常に海のある街で暮らしていたときにはことさら海をみたいなどと思ったこともないのだけれど、東京の、いくらか内陸に入り込んだような場所で七、八年生活を続けているうちになんとなく海が近くにある街とそうでない場所との差異を考えることがあった。昔の哲学者だか詩人だかが故郷を思いながら、パリでは海の音が聞こえないと嘆いていたというような話をどこかで読んだことがあった、などと考えながら。
今目の前にある生活の息苦しさを、海がないことに転嫁してみたり。だがそれはやはり幼い空想に過ぎなかった。

現代のように交通の技術が発達する以前には、海は常に人と人が行き交う上での最大の障壁だったはずだ。海を渡ることは決して容易いことではなかった。海の向こうへはなかなか渡れない。そして渡れないからこそ人はその向こう側をなんとでも想像する。なんなら自分勝手な世界観を作り上げることもしばしばのことだ。四方を水に囲まれた島では、海に守られる、という表現すら当てはまるだろう。
結局、今現在の矛盾を外部に投影する、という弱さからなかなか抜け出せなかったのかもしれない。いや、それは今をもって自らの課題でもあるのだろう。空想としての外部を否定する。ただそれを言うことは誰にでもできるが、そう言いながらもどこかで外部を設定して、それに従いいつのまにか自らの行為を規定するということは度々。情報という海に囲まれ、その中でただぬくぬくと妄想を膨らませているだけであることに気づかず、すべてを知った気になっていないか。

そこは、もちろんそれまでに来たこともなく、名前も知らない海岸だった。
まだ夏の訪れには早かったそのとき、白い海岸に見える人影はまばらで、その近くで暮らしているのであろう人が犬を連れてのんびり歩いているか、あるいはウェットスーツに身を固めた人達がボードを片手に海に向かっていくのがせいぜいだった。
人がいないせいか砂浜から水際までの距離が長く感じられる。あるいは自分の記憶にある浜の距離感より実際大きな砂浜なのかもしれない。目の前にあるはずの海から聞こえる波の音がどこか違った場所からやってくるもののように思える。
その場所からはかなり先の海岸線まで見渡すことができた。遠くにはゴツゴツとした岩場がみえる。あれを越えるともう半島の先に出るのか、あるいはまだいくらか車を走らせた先がその先端になるのだろうか。
砂浜の白さがやけに鮮やかに映える。記憶の中の砂浜はこれほど白くはなかったし、こんなに白い浜を目の当たりにするのは始めてだった。
どんよりと薄曇りの空の下、それでもその海岸は十分に美しかった。そう、それは余りにも美し過ぎたのだった。まるでその日そのときだけ忽然と姿を現した幻の場所のようですらあった。
そしてそのとき思ったのだった。この美しさは自分には必要のないものだと。美はいらない、ヒリヒリと痛むような現実の在処を知りたかった。
それが、たまたま昔の友達とふらふらと散歩をしたとき思ったこと。もう半年以上前のことだ。

相変わらず弁当屋での仕事を続けている。だがもうこの仕事を続けていることの意味は以前と違っている。三年前には少なくともこの仕事をやる意味はあった。そのときはまだ一緒に仕事ができる仲間がいた。だが、今はもう、一緒に仕事をする、ということができない。一緒に仕事をするという行為がなかなか理解されない。今、あるのはそれぞれがそれぞれの領域に閉じこもりただ黙々とつまらない作業を続けるだけの分業だ。これでは、いつまでたっても仲間にすらなれない。分業の埋め合わせを、酒やつまらない冗談で果たそうとするのは無駄なことであり、こっちからすればただ煩わしいことに過ぎない。目の前の現実に向き合うことがなければ世界はいつまでも変わることはないだろう。

会社主義の牙城をいかにつき崩していくか。理念という名の絵に描いた餅を振りかざすことでは何も始まらない。何かしなければならないという小賢しい使命感を捨てて。反権力という名の権力を指向するのでもなく。現実の課題、ヒリつくような生きることの感覚からはじめること。日常の無意味さを嘆くだけで事足りる時期はもう過ぎた。
少しつづ、書けることを的確に。(08/01/12)