普段はそうお金もないから碌に外で飲み歩くこともしないのだけれど、たまたま年末の三、四日続けて外に出る機会があって、それが終わった後にはもうすっかり何もやる気が起きないまま今年の終わりの数日を迎えることになってしまった。
部屋の掃除くらいやるのかな、とは思っていたがそれももういいや、ということになってしまった。まだ部屋を越して来て日が浅くそれほど汚れていない、ということを言い訳にして。
何冊か読みかけになっている本をさっさと片付けて、掃除はその後で十分。今はそんな感じか・・・
別に今年に限ったことでもないのかもしれないが、十二月の終わりという時期だからといって、今年はこんなことがあったあんなことがあったと振り返る気分にはならない。未だすべては進行中のこと。その最中にあって、それを言葉で定位し括ることは危険なことだ。
あるいは相変わらずうだつの上がらない中途半端な状況が続いているとすべきだろうか。だがそれだって結局ことばに過ぎない。立ち止まって判断する暇があるなら今は身体を動かしていたい。
今年のはじめ頃に書き始めて、五十枚程で放りだしてあった物語を手がかりにまた文章を書き始めている。多分、半年くらいは手をつけず放り出してあったから、再び手をつけるときには、さて何をやろうとしていたのやら、という感触になっていたが、それをそのまま捨てるのももったいないという気がするし、また別の物語を書き始めるの面倒だったから結局その五十枚からはじめることにした。この数ヶ月はそのことにいくらか時間を割くことになるだろう。
書くことを通してやるべきこと。
それはものごとをゆっくりやる、ということ。
これが今の自分にはなかなか難しい。
例えば今関わっている弁当屋の仕事は、他人の昼食を作り手元に運ぶという仕事だから、当然時間の制限がある。いくつかの例外を除けばおよそ二千五百程の弁当を正午までに限られた人数で作り、届けなければならない。そういう状況の中にいれば自然と「速さ」が求められる。だがその「速さ」とは何だろう。「速さ」が求められ、「速さ」が重宝がられる現場にいるとき、拭いがたくそれを疑う感触が浮かび上がってくる。「速さ」に乗れる人間もいれば乗れない人間もいる。「速さ」は常に正義であり、できないことは悪なのだろうか?
ゆっくり時間をかけてやること。
一日の内の多くの時間を割く、という意味ではない。実際今の生活の中で五時間、六時間と書くことに時間を費やすことは出来ない。やれるだけの時間の中でゆっくりとやること。ことばの意味に引きずられず、考えられたことばを持ち込まないようにしながら、何もしない先にある持続に身をまかせる。
今更ながら身体を動かさない作業が苦手であることに気づいた。と同時に以前から薄々感づいてはいたが、自分がなかなかの寒がりであることにも気づく。寒いと何もしたくなくなるという傾向があるのだ。その自らの悪癖はともかく、身体が冷えるというのは万人にとっての病の元でもあるらしい(どこから冷えたとするか、という差はあるだろうが)
さて、身体を温めるためにどうするか?
単純に何らかの運動で身体を動かすというやり方。これは弁当屋の仕事でやっていること。あるいはやれること、と言うべきか。
次に何かを食べるというやり方。暖かいものを食べるというだけでなく、食べ物を租借し、消化、吸収するという一連の行為自体が運動であり身体を温める作業になる。断食をするとまず身体が冷えるのがつらい、という話しを聞いたこともある。さらに食べる、という行為が興味深いのは、それが自らの意志で身体を動かすのではないということだ。もちろん食べるのは自分の意志ではあるが、それを消化し吸収するのは身体の内部にある臓器でありそれらの臓器は自らの意志で動いているものではない。自らの意志の外で動いている身体。その動きを感じる行為としての食。
だが残念ながら食べながら書くことはできない。寒いと犬や猫のごとく丸まって何もしたくなくなるが、腹が満たされると今度は眠くなる。これでは、書くことはおろか、本を読むこともできない。
こんな単純なことで躓いていて、ではおまえは今までどうやって書き、読んできたのか?、ということになるが、その理由はまあ、煙草、ということになるのだ。
他の人はどうなのか分からないが、少なくとも私の場合、煙草を吸うといくらか(吸った時だけ)身体が暖かくなる。いくらか暖かくなれば集中もできる。そしてまたいくらか身体が冷えてきたらもう一本、そこからさらに一本。そうやて今までは読み、書いてきた。その煙草を最近やめたので(完全にやめたわけではないのですが、、、)上に書いたようなことを考えていた、というかわかってきたという顛末ではある。
煙草を吸う、吸わないあるいはそれにともなうあれやこれやはまた別に書くとして、ともかく弁当屋の仕事を続けている間は煙草は控えようと思っているので(煙草を吸っていると身体が動かない。これについてもまた書く気になったときに)そこで、どうするかということになっている。まあ、それほど大袈裟なことではなく、適当にコーヒーやお茶、あるいはただのお湯なんかを飲んで作業は続けている。だいたいこんな話しは単に自らの怠け心から来るへ理屈に過ぎない、と言われてしまえば返す言葉はない。本当に集中しているときには煙草もコーヒーもなく書き続けていられるのだから。
この数ヶ月、出来ることなら物語を書き進めることに集中できればと思っている。そしてそれを書き切ることで、あるいはいつも通り途中で放り出すことになるのか、ともかくそこで一度書くことにケリをつけられればと思うのだ。まあ、先のことを言っても、鬼が笑うだけ。ケリをつけたい、という思いだって結局自らの願望に過ぎない。世界は自らの思う通りには動かない。いつだって自らの意志の外で事は起こる。
書くことは、生活の中の一部分でしかない。今現在、言葉を綴るという行為は別に特権的な人にしかできない特殊技能でもない。誰も彼もが、あらゆる場所で言葉を綴っている。結局、書くべき人がそれぞれの場所で書けばいい。
生活の裏を流れる静かなうねりを感じること。そこで何をやるかは、二の次の話しだ。
水村美苗の「日本語が亡びるとき」を読んだ。二十代に柄谷行人を読んで来たものからすれば、その文脈で書かれている本書はなるほどと納得することも多く、柄谷行人がいつもジョーカーのごとく使う坂口安吾を否定のカードとして差し返すあたりは、思わずニヤリとしてしまう感じもあるのだけれど、やはりその手のエンターテイメントに耽る余裕はないという気がしてしまう。日本語の美しさをあられもなくうたい、学校教育を通じてその日本語を守る事を提唱する水村美苗。そのことを単純に右だ、ナショナリズムだと言い立てることに意味はなく、その手の浅薄な批判をはねつけるだけの精緻さをもって本書は組み立てられてもいる。実際、水村の言うやり方も時と場所を選べばひとつの方法にはなるだろう。
だが、逆に言えば結局それは一つの方法でしかない。そしてその方法を広く一般に提唱するという行為は一個人の立場の表明でしかないと思わずにはいられないのだ。水村の方法を否定するものは必ずいる。違う立場の人間はいくらでもいるのだから。
結論を出してしまう(まだ何も決まっていないのに?)というその姿勢はやはり近代への回帰ということにはならないのだろうか。
さらに言えば、水村には書くことへの疑い、文字に対する疑いという視線がない。もちろん本書でも言われているように、書き言葉のない無文字社会を夢想することには何の意味もない。今後も長きに渡って文字に囲まれて生きていくという状況は続くのだろう。で、あるからこそ書くことへの疑い、文字に対する疑い、という視線が必要なのではないだろうか。
仏教の経典の中には、書き言葉こそ悪の根源であるというような記述もある。その言葉をまさに書き言葉で読むほかない捩じれた状況(それも日本語訳で)
今、言葉で出来ることとは一体何なのだろうか?
来年は弁当屋の仕事で一波乱あるかもしれない。
他所の庭にミサイルを撃ち込むだけではこと足りず、とうとう(ようやくか?)自分の村の住人達を追い出すことをはじめた老人達とその太鼓持ち達。非正規雇用とかなんとかいう言葉ばかりに焦点が当たるように見えるのは、彼らが首を切る方でなく、切られる方が悪いと言いたからなのだろうか。まあ、どっちが悪いというような話しに乗るつもりはない。解雇のあとに労働組合の結成という話しもどうなのかと思うが、ともかくその場でやれることをやるだけだ。
なんにしろ、近い将来何らかの理由で弁当屋で働けなくなるのは間違いない。(今もぎりぎりのラインで働いている)
そのときはどうするか、という問はもちろんある。
だが今は結論に逃げ込まず、その問を抱えたまま動いていくほかない。
これが今年の年の瀬。(12/31/2008)