突然圧倒的なわからなさの前に立ち尽くすことになった男はとりあえず爆発的に笑ってみせるだろう。二十年以上前に生き別れた母親を偶然目にして一体自分はどう振る舞えばよいというのか。恨むべきか慕うべきか、はたまた何も関係はないとこのまま何事もなくこと済ますべきなのか、そもそもまずその女が未だ生きていたことに驚くべきなのか。いや何にもまして何故、今更、この時に、その女の存在をこの自分があらためて知ることにならねばならないのか。何もかもわからない、と男は思う。その馬鹿馬鹿しいほどの分からなさを前に男はただ笑うほかないのだった。
男は何の目的もなく、ただふらふらとここまで生きて来た。そして今もまた同じようにただふらふらとこの前知り合ったばかりの女の部屋に顔を出して見る。そして男はとりあえず、つい今しがた、昔自分を捨てた母親に会ったと口に出していってみるのだ。ただ偶然母親の姿を見かけたことで、そのことを誰かに話したくなり、男は女の部屋にやってきた。もしその日母親に会うことがなければ男が女の部屋に来ることもなかっただろう。もちろん男の中に女に会いたいという欲望があったのは確かだ。だがここでの男の振る舞いはあくまでも散文的なものだ。「あんたのこと考えとる」と男は言いもするだろうし、それはもちろん嘘でもない。だが同時に男は、アチュンのことユリのことうさぎのこともただ意味もなくつらつらと女の前に並べるてみるのだ。ただ事実を列挙すること、意味の向こう側で動く女の息づかいを男は感じようとするだろう。あくまでも意味はなく偶然に出会った二つの身体が触れ合うことで変化する世界を男はただ受け入れる。「恋愛」という物語を男は巧みに回避するだろう。
わからないことは、少しづつでも探っていくほかない。もちろんわからないことはわからないままにしておくということも含めて、男は少しづつわからなさににじりよっていくだろう。一体あの女は何ものなのか。その女に対して自分は一体どう振る舞うべきか。はじめは遠目から眺めてみる。もちろんそれでは埒があかない。とりあえず、顔を見て一言、二言声を交わしてみるか?
もし顔を合わせたとたん自分と父親を捨てたことを涙ながらに詫びるような女なら、馬鹿らしいの一言でその場を離れ、すべてを終えることもできたのかもしれない。だが幸か不幸か女はそんな振る舞いを見せることはなかった。テーブル越しに向かい合ったその顔にうっすらと笑みを浮かべこちらをずっと眺めている。時折、あんただとすぐにわかった、というようなことをぽつり、ぽつり口にしたりする。男もまた間を無理に埋めるように喋り続けるようなことはしない。ただ相手を探るように時折、ぽつりぽつりと声を発するだけだ。自殺した父親のこと、松村安男のこと。そしてユリのことアチュンのこと。
その子らを引き取れというのか、という言葉は女の早とちりに過ぎない。だが、そう言われてみればそれも別に悪いことではないような気にも男はなる。あんたも一緒にここに来るのか、女はそうも言った。一体この女は何を言っているのだろう? 男はそのわからなさにその言葉を拒絶すらできず、その場は言葉を濁すだけで立ち去るほかない。
偶然の出会いはない、すべては出会うべきして出会う、とは映画の中で登場人物の一人が言う台詞だ。映画「サッド・ヴァケイション」は、偶然を偶然のまま生き続けるか、あるいは偶然を必然に変えようとするかという二つの力の葛藤を描いている映画だととりあえずは言えるだろう。女の物語であるとか、立ちはだかる母性だとかはあまり関係がないような気がする。
男は、あんたも一緒に暮らそうという女の誘いにそのまま乗ってみるのだった。運転の代行を請け負う仕事だけではたいした収入にはならなかったから、仕事を世話されるというだけでもかなりありがたい話しだし、その上社宅という形で住居も提供され、ユリやアチュンの居場所にもなるというなら男にとって悪い話しではない。女はなぜ息子に一緒に暮らせと言ったのだろうか? 一度は捨てた子供に対する罪滅ぼし? あるいはもっと違った企みが女の中にあるのだろうか。いや、単に女もまた行き場をなくした男にただ声をかけただけなのかもしれない。別に無理強いはしない、どこか他所にいくというならいけばよい。女もまたケンジというわからなさの前で戸惑い、探りをいれているのかもしれなかった。
ケンジは間宮に問う。なぜ世の溢れ者達を集めて働かせているのか、と。間宮は答えるだろう。別に理由はない、ここがなくなれば溢れ者達は行き場がなくなる、だからここで働かせているだけだ。兄ちゃんもいっしょやろ、ユリちゃんやアチュンと一緒に居ることに理由はなかとよ。
男もただ行き場のない子供が目の前にいたから、今は一緒に暮らしているというだけだった。もし子供に他の場所があるというならそこにいけばよいと男は言うだろう。行き場をなくした子供に母親に捨てられた自分の姿を重ねているのだろう、というような物言いは偶然を必然にしようとする言い草だ。もちろん男の中にそんな心理がないとは言えないのかもしれない。結局それが偶然と必然の葛藤ということになるのだろうか。
男は子供を連れ戻そうとする中国人に反撥する。だがそれはあくまでも必然を持って子供を連れ出そうとする者に対する反撥であり、子供がかわいくなったか、というような自分の情を根拠に反撥するわけではない。親などなくてよい、それは偶然を偶然のまま生きるということだ。子供には母親が必要だというような必然をもってことを動かそうとするものに対して男が反撥するのは当然のことなのだ。
偶然と必然がせめぎあう現実。いや世界は常に偶然の積み重なりであり、そのことに耐えられないものたちが常に必然という観念で現実を隠蔽しようとする。
この映画の登場人物達は、それぞれ偶然の側に立つ者と必然の側に加担する者とに単純に区分けできるように描かれているわけではなく、それぞれの者が常に偶然と必然の間で揺らいでいる様が描かれている。そしてその揺らぎがそのままこの映画のリアリティでもあるのだろう。
世界の根拠のなさ、あるいはその偶然性や無目的性をただ指摘することはたやすい。だがそれを言うことと、その世界を生きることはまったく別のことだ。机上の理論に胡座をかくなら、人は何度でも必然の罠に捕らわれるだろう。
男もまた偶然を偶然のまま受け入れ生きることを軽々と成し遂げるというわけではなく、いつでも必然の重力に囚われそうな誘惑に駆られるだろう。
出会いが偶然でなく、会うべくして会ったというならその出会いの理由を嫌でも捏造する他ないだろう。今こうしてかつて母親だった女とかつてその息子だった自分がともに生活している理由はどこかに存在しなければならないのだ。
その理由とは? それは女が母であり自分が息子だからか? 冗談ではない、と男は言うだろう。一度捨てられたことを忘れて何が親子だというのか。もともと親でも子でもないのだ、あの女が泣いて叫び、不幸になろうが自分には何の関係もないのだ。少しずつ少しずつ男の身体に濁りが混じってくる。
ただ同じ中国人だというだけの理由でアチュンを強奪される。小さな偶然はいつだって必然をもってただ踏みにじられるのだ。復讐するのか? 男と同じように母親に捨てられたという女は男にそう問うだろう。何を持って復讐とするのかわからない、男はそこでも濁ったままの言葉をもってそう答えるだけだ。そして真夜中、激しい雨の降り注ぐ中、男は意味の亡霊と遭遇する。その亡霊もまたかつて生きることの偶然に耐えられず、必然に取りすがった男だった。
もともと親でも子でもなかろうが、だが親でも子でもない者が、なぜその女の不幸をわざわざ望むのか。結局それは親であり子であるという関係に逆の形ですがっているからに過ぎない。もともと親でも子でもないというなら、復讐は放棄されなければならない。
女もまたその過酷な偶然に耐えられず、必然の前に屈服していく。男は自分の息子であるからこの家にいなければならず、あるいは弟を殺しここにいれらなくなるというなら、男の息子をこの家に招き入れればよい。血、という必然が自分にはあるのだから。だがこの行為は自らの首を絞めることにしかならないだろう。それほど血にこだわるなら、なぜそもそもの最初に子供を捨てたのか。夫を捨て、子供を捨て生きることを選んだ女。単に捨てることをもって女を非難する視線こそ、女は女らしくといったくだらない必然の側のものではないのか。間宮運送が溢れ者達の吹き溜まりだとするなら、この千代子と言う女もまた、健次の母と言う以前に必然と言う制度から溢れた女なのだ。
それぞれの者が偶然の過酷さに耐えられず、必然という口実にすべりおちていったあともこの映画がけっして退屈なものにならないのは、外側からの視線があるからなのかもしれない。梢はたえずことの成り行きを外側から眺めている。あるいは梢を眺める後藤の視線。あんたらみたいに泣ける話しはオレにはない、というようなことを健次と梢の会話を聞いていた後藤はいう。生きる必然、そんな者は所詮内側にあるものの幻想に過ぎず、外から見えるのはただ偶然に振り回されるままに生きる様だけだ。そんな場所から撮られた映像の連なりは強く、美しい。その意味で最後のシーンは(大きなシャボン玉が割れるシーン)はよく意味がわからなかった。(2007/10/25)